記事:2022年9月 ←2210  2208→  記事一覧(+検索)  ホーム 

国葬(国葬儀)に反対です(22.09.25)

 なぜ皆こんなに第二次安倍政権を支持したのか。
 さっぱり分からない側からすると「こんなに」ではなく「そんなに」なのだけど、まあ自分がこれくらい安倍氏を嫌う以上、逆に好きで好きでたまらない人もいるだろう(自分の趣味が偏ってる自覚はあるからな)くらいに思っていた。
 今回の国葬だか国葬儀だかで起こった様々な議論のなかで国が下り坂の中、強い権威・強いリーダーが求められたという見解を目にした。下り坂を決定的にしたの他ならぬ第二次安倍内閣じゃんという話はさておく。この見解を示した人も「だから支持されたのは仕方ないし、いいんだよ」とは言っていない。むしろそうした権威主義が今後も強化されることを危惧している。(もちろん僕の狭い観測範囲なので「そうとも強いリーダーが必要なんだ」と主張するひともいるだろう)
 国が下り坂の時には強いリーダーが必要だ、という物言いには、なんとなく納得させられてしまうところがある。不安な人たちが頼れる者にすがりつくのは仕方ないよ、同情すべきじゃないか、反射的にそう思ってしまう。でも不安だからと言って、皆が頼り、すがりついたものは何だったか。
 原発事故の被害や被害者の存在をなかったことにしての、賄賂まみれのオリンピック招致。
 トリクルダウンを称しての、大企業や大株主ばかりに有利な税制や金融政策。
 特定秘密保護法。戦地への自衛隊の派遣。共謀罪。
 なにより経済的に困窮する人々や過労死するまで残業を強いられる人々、外国籍の住民、女性や子ども・性的マイノリティを笑い、ネグレクトし、迫害のターゲットとして積極的に差別を煽った。
 国が下り坂で不安だから、そう言い訳しながら国を「世界の中心で輝く日本の私たち」と「その足を引っ張るマイノリティ」の二つに分断して、実は後者から搾り取ることで永らえながら「下り坂」の原因は後者だと逆に押しつけた。
 この十年間、個人的には日本がふたたび何処かの国に馬鹿な戦争を仕掛けることを危惧していた。
 けれど他国に仕掛ける戦争はなかったかわり、この十年間、彼ら彼女らは(そしてそれを支持する吾々は)自国民に内戦を仕掛けていたのではないか。
 
 この内戦を終わらせたい。
 不安だったのかも知れないが、吾々は間違った希望にすがってしまった。
 あなたたちにとっては甘い夢だったかも知れないが、そうだった人たちにとっても、そろそろ夢は悪夢に変わりはじめた頃ではないか。
 このまま悪夢を見続けたくはない。今を逃して「二度寝」すれば、悪夢はますますひどくなり、もう目覚められないかも知れない。
 
 国葬(国葬儀)に反対な者は、法とか何とかは後づけの口実で、要はアベガー、アベガーと言いたいだけではないかという声がある。
 僕自身は「そのとおりですが何か?」と思っている。これも「不安だったから仕方ない」と言われると一瞬たじろぐように、「安倍さんが嫌いなだけなんでしょ」と言われたら「そうじゃなくて」と反射的に言いたくなるけれど、彼と彼の取り巻きが十年・二十年してきたことがことごとく大嫌いだ。もちろんその中には法的な手続きの無視も含まれる。
 取りこぼした理由も多々あるだろうけど、取り急ぎ。

 国葬(国葬儀)には反対です。

 あとコレは本筋から外れるけど「国が下り坂で不安だった」と言うとき、つい現状を見て経済的な不安などばかり考えがちだけど、第二次安倍政権が誕生した2012年には東日本大震災のショックが大きかったことを忘れてはいけないと思います…
 9/27の14:00、武道館で国葬(国葬儀)が強行される同じ時刻には国会前で反対の集会が予定されている。個人的にはこれが国葬反対というよりもオキュパイ・国会議事堂みたいな運動になればいいと思っている。岸田氏は、人々が反対しているのは「安倍氏の」国葬だと思ってるかも知れないが、抗議の矛先は安倍氏の路線や姿勢を継承した岸田氏自身に向けられていると知ってもらったほうがいい。彼が継承した路線には、国会の軽視・無視も当然あげられる。武道館で首相らがパーティーを開いてる間、「使わないなら返せ」と国会前が埋め尽くされたら、多少は揺らぐものもあるのではないか。

「聞く力」について(22.09.27)

 今回の国葬(国葬儀)でも繰り返されたが、政府・内閣・自民党の「もっと説明して理解を得たい」という物言いを目にするたび、思い出すフレーズがある。
政府は、必要な措置を次々と命じて民心を安心させる「口」だと自任していたが(中略)国民が本当に望んだのは、権力の「耳」だった
(キム・エラン「傾く春、私たちが見たもの」)
前にも引いたことがある、セウォル号水没事故をモチーフにしたアンソロジー『目の眩んだ者たちの国家』(新泉社)の一節だ。
「言葉を与える」2018年12月の本サイト日記
『目の眩んだ者たちの国家』新泉社(公式)(外部サイトが開きます)
 要は「説明します、理解されるよう説明しますと言うけれど、必要なのは頑として変えない方針を説明することじゃなくて異なる意見に耳を貸すことじゃないのか」ということだ。

 岸田首相が就任後、モットーとして掲げた「聞く力」は、すでに累積していた「説明より人の話を聞け」という声の前向きな受容のように見えた。いや、どうせ口先だけだろうと思った人たちもいるだろう。実際そうだった。「小さき声に耳を傾ける」と言えば聞こえはいいが、それが国民の大多数の反対にも関わらず国葬(国葬儀)の開催に固執する、与党支持の岩盤層と言われる少数派の「小さき声」だったと判明した今、口先と実態の乖離は極まったと言える。
 だが、逆に考えてみたらどうだろう。そもそも「聞く力」も、人々の「話を聞け」という意見を逆手にとって自分のものとし、中身を骨抜きにすることで無効化する、いつもの手ではなかったかと。
 戦争を安全保障と言い換え、先制攻撃を反撃能力と言い換え、男女共同参画を女性が輝く社会と言い換え、そして聞く耳を持たずに強行し「時が経てば国民は忘れる」と開き直ることを「説明を重ねて理解を求める」と言い換えた。少数者が差別に反対すれば「逆差別」と言い立て、ヘイトスピーチに抗議する言葉を奪い取り「政治家へのヘイト」などと誤用を敢えて広めた。「平和」「平等」「人権」といった敵(こんな人たち)の武器を奪い取り、意味を正反対にしてしまう。一単語にまとめると「簒奪」と言う。第二次安倍政権とその継承者が行なってきた言葉の破壊・言葉の簒奪の、岸田首相の「聞く力」も、その最新版にすぎないのではないか。

 まとめ。岸田首相の「聞く力」は、するつもりだったが実行されない約束ではなく、もともと実行する気がないどころか「聞く力」という言葉の信用を失墜させ骨抜きにすることで、人々からまたひとつ(為政者にとって不利な)言葉を奪い取る、簒奪が目的だったように見える。
 それだけの、短い日記です。強いて付け加えるなら、たまったもんじゃないよ。

 

 ちなみに余談+個人の感覚だけど「SDGs」なる言葉も、真剣に取り組む人たちは沢山いると承知しつつ、政府ならぬ大企業(まあ一体とも言えるが)が「自分たちを批判する敵の言葉を奪い取り、骨抜きにする」戦略で濫用・乱用されてる気がしないでもない。

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2210  2208→  記事一覧(+検索)  ホーム