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Ain't that peculiar〜ポール・オースター追悼(24.5.6)

 またひとつの時代が過ぎ去った感。90〜ゼロ年代くらいの一時期、「本が好き」みたいに自らをアイデンティファイする人々にとって、ポール・オースターは取り敢えず読んでおくべき作家の一人・もしかしたら筆頭だったかも知れない。当時の僕も(たぶん多少は背伸びして)その流れに乗ろうとした一人ではあった。

 『ミスター・ヴァーティゴ(Mr.Vertigo)』は英語のペーパーバックで挑戦した記憶があるのだけど、途中で挫折して最後は邦訳で読み終えたような気もする。孤児の主人公が謎の人物ヴァーティゴ氏に拾われ「ain't」という言いかたはやめなさいと矯正される場面があった。
 まず学校では習わない、でも洋楽などには頻出する表現だ。イット・エイント・イージー。エイント・ザット・ピキュリアー。エイント・ノー・キュアー・フォー・ザ・サマータイム・ブルース。イット・エイント・ミー、ベイブ、ノーノーノー。
Bob Dylan - It Ain't Me Babe(Official Audio)(YouTube/外部リンクが開きます)
ボブ・ディランのLike a Rolling StoneのクライマックスにYou ain't got nothing, you got nothing to lose(何も持ってないお前さんに、失なう物があるもんか)とあるように主語が何人称でも、何ならbe動詞や一般動詞かすら気にせず否定は全部ain'tで通せる、こんな便利なものをなぜ、もっと使わないのだろうと中学生の頃から僕はひそかに思っていた。
 ダメな理由というかニュアンスが氷解したのは柴田元幸氏による邦訳を見た時だ。ain'tを使うなのくだりは、こう訳されていた−「じゃねえよ」ではなく「じゃないよ」と言いなさい。適切な訳ってすごい。なるほどねえと納得した。カジュアルな会話や私信・SNSの「つぶやき」などでは使うけど、公の場では推奨されない、みたいな位置づけらしい。

 いや、柴田氏ではなくオースターの話。
 柴田氏が訳し、紹介するような英米文学の「今」に追随しようという気概も「若いころは自分も頑張ってた」という思い出になった頃、思わぬところでオースターの名に再会したのは数年前のことだ。
 最初は売れない詩人としてスタートしたオースターが小説家として成功する前(その駆け出し時代の文章をまとめた『空腹の技法』という文庫は、ややもすると抽象的な後の小説より取っつきやすい面もあり、リリカルで好ましい一冊だったように思う)パリ暮らしをしていた一時期、英語圏ではまだそれほど知られていなかったフランスの文化人類学者ピエール・クラストルの文章に惚れこみ、英訳の出版を模索していたというのだ。
ピエール・クラストルとポール・オースターの「出会い」(洛北出版/外部リンクが開きます)
 本サイトでも何度か言及したように思うけど、未開で文明に達しなかったと捉えられてきた部族社会は、逆に文明≒国家の破壊的な力を敢えて避けた「国家に抗する社会」だったというコペルニクス的な洞察を、詩的な文章で遺した夭折の学者だ。たとえば30年前だったらオースターに挑戦していたような(本に真実や生きるよすがを求めるような)本好きが、今だったら手を伸ばしてるかも知れない 高島鈴布団の中から蜂起せよ(人文書院2022年/外部リンク)みたいな本がクラストルにも言及してるので「あー、あの」と手を打つひとも居ると思いたい。
 いや、クラストルでなくオースターの話。
 書影。『空腹の技法』(新潮文庫)と、「はじめてのクラストル」と帯の巻かれた『社会は国家をもたぬよう努めてきた〜クラストルは語る』(洛北出版)
 上で「抽象的」と書いたのは明らかな「誤訳」で、具体的な描写もいくらでもある、けれど何とも言えない不思議なズレかたをした小説を書く人だったように思う。それを的確に表現する語彙が少なくとも今の自分の中に見つからないのだけど―
 コロナ禍の初期、すごく社会が終末的な暗さに澱んでいた時期、その雰囲気に相応しい本として再読したいと思ったのが『サラエボ旅行案内』と、オースターの最後の物たちの国で(白水社Uブックス/1999年/品切/外部リンク)の二冊だった。
 前者についてはWikipediaの記事(外部リンク)を読んでもらったほうが早いと思う。後者は、曖昧とか抽象的とかネジがズレてるとか、それこそヴァーティゴ(めまい)のようなと呼びたくなる作風が削ぎ落とされ、(そういう荒涼感も実はずっと伏流していた気もするけれど)ひどくシビアな筆致で描かれたポスト・アポカリプス世界の物語だった。
 オースターの訃報は、その後も果たせていない再読を早くという、時の催促かも知れない。暗い時期すら通り越して、なるほどこれが「明るい滅び」かと思わされる今だからこそ。

 彼の逝去を悼む。そして彼の作品を愛好していた(僕も含めた)人たちみんなを悼む。僕たちを構成しているのは僕たちが愛好する事物や人々・作品であり、それらが少しずつこの世から取り去られるたび、僕たちも少しずつ、その部分から向こう側に籍を移しているのだ。いつもいつも言うことだけれど、弔鐘は他ならぬ吾々のために鳴っている。さよならオースター、さよならオースターを食べて生きた僕たち。その身体が枯れ果て、心を構成するものが全て向こう側に移ってしまった時、僕たちは向こう側でまた逢えるだろう。…何を言ってるんだって感じですが、(死してなお)かくもヘンテコな考えに人を走らせる作家だったと言えるかも知れません。

 金沢で治部煮を食べながら、食堂のカウンターでページをめくっていた『ミスター・ヴァーティゴ』は英語だったか日本語だったか、もう思い出せない。オースターの作品も、ストーリーや細部は忘れ、ただ読んでる最中しあわせだった感触ばかりが残っている。Pleasures remain, so does the pain. Words are meaningless and forgettable.って本当かも。いや、それもまた別の話だけど。

どっちの日本に住みたいか〜室橋裕和『カレー移民の謎』(24.05.19)

 名前のとおり薄荷=ペパーミントにユーカリプタス・湿布薬でお馴染みサリチル酸メチルの原料となるウィンターグリーンなどをブレンドし、頭痛や肩こり・風邪や軽い火傷などにも効くという萬應白花油(万能ハッカ油)は台湾だとコンビニで買える定番商品だけど、日本ではAmaz○nですら入手しにくく、店頭では7〜8年前に新宿のアジア食材店で一度みかけたきりだった。いつも長粒米などを買っている地元ヨコハマの同様の食材店で入荷が確認できたのは自分の知るかぎり初めてのことだ。
 ジャスミン米のパック(右)と和興白花油(右)。キャプション「白花油は犬猫には良くないらしいので御注意(愛はつらいものよ)」
※後述する大久保では、もっと入手が容易かも知れない。
※台湾で主流の「萬應」ではなく香港以南で流通しているという「和興白花油」でした。
 同店の同じ棚ではサリチル酸メチルを主体にしたフィリピンのマッサージオイルをしばらく置いていたが、定着しなかったのだろう。白花油は定着してくれると嬉しい一方、これも温暖化・じわじわ日本が南アジアの仲間入りしつつある徴ではと思わないでもなく。
 こちらは昨日今日の新店じゃない、ワンタンと魯肉飯(この店の表記だと「滷肉飯」)がメインの、つまりは台湾食堂に入ってみたのも最近。店内のつくりまで完全に台湾の「ざっかけない」感じで
 左:瑞芳(台湾)の雲呑湯と魯肉飯65元。右:伊勢佐木町(横浜)2024年のワンタンスープと滷肉飯980円。右のほうが大ぶりでサラダもあり・滷肉飯は煮玉子半分つき
 「白花油もあるし雲呑湯と魯肉飯も現地に近い雰囲気で食べられる…もうこれで妥協しとけば?というお告げでないことを願いつつ(出来ればせめて後いちどくらい本物の台湾に行きたい)
 もちろん受け手である僕自身の意識が「そっち」向きになったので、このワンタン屋のように今まで見過ごしていたものが目に入るようになった側面もあるだろう。けれど事実としてアジア系の食材店などは増えてもいるはずだ。
【ここで(早いけど)今週のまとめ(仮)】ごちゃごちゃ雑多なアジアへの(再)編入と、西欧ブランドに追随する路線の継続。日本のグローバル化は相反するベクトルの綱引きなのかも。

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 インドカレーを売りにしながらネパールの国旗を掲げる、いわゆる「インネパ」料理店も近年の台頭いちじるしい存在かも知れない。その呼称になんとなく軽侮のニュアンスが透けて見える(気がする)ように、甘口のバターチキンに巨大化したナン・それもチーズナンやあんこナンなどの変わり種といった路線は「本格的でない」「イージーな客におもねっている」「安かろう悪かろう」的に見下げられる傾向も、ないとは言えないだろう。
 偏見も半分・だがファンでも歯がゆく感じる実情も半分はあるらしい。「巨大ナンにバターチキン・オレンジ色のドレッシングがかかったサラダ…もとより地元ネパールの料理でないし、かといって本格インドからも逸脱したメニューをコピペのように供する店が、どうしてこんなに増えたのか」その経緯を長らくタイに居住・帰国後は新大久保を拠点にして移民取材を中心に執筆するルポライターが丁寧に解きほぐしたのが
室橋裕和カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(集英社新書/2024年/外部リンクが開きます)
 まずはラス・ビハリ・ボースが監修した新宿中村屋のインドカレーや、銀座ナイルのムルギーカレーに始まる(イギリス経由でない)インド直系のカレー史が面白い。
 出てくるなり「しっかり混ぜて」と言われる銀座ナイルレストランのムルギーカレー。美味しいけど、たしかに見るからにナンで食べる「インドカレー」ではない。
 ナンとタンドリーチキンを主体とした吾々がよく知る「インドカレー」はムガール帝国の宮廷料理=ムグライ料理をベースに銀座(のちに新宿)「アショカ」が供したのが嚆矢だという。あるいは「バターチキンカレーの祖」六本木モティなどレジェンド級の名店が作り上げていった「インドカレー」のスタイルが、2000年代を機にネパール人たちによって一気に拡がる。

 カースト制の意識が強く残り、コックはコックの仕事に徹する(以外しない)インド人に比べ、厨房から接客・掃除まで何でもこなせることも、ネパール人がスタッフとして重宝された一因らしい。規制緩和により外国人でも500万円の出資で会社を作れるようになり、数人集めれば開業が容易にもなった。そうして独立したネパール店主たちは、自分たちが勤めていた元店のスタイルを意識的に模倣した。
 時には元店のカラフルなメニュー表まで、そのままコピーすることもあるそうだ。安易と批判もされながら(大手ハンバーガーや牛丼店のようなフランチャイズ形式でもないのに)チェーン店のように激似したスタイルがコピペされる理由のひとつは、実は日本の入管行政だった。カトマンズのような都会でなく農村部からそのまま日本に来る若者には、まともなコック業の経験もなく現場に入ってから見様見真似で調理を憶える者も少なくないという。これはネパールの側での教育・大きな意味での政治や行政の問題だ。けれど彼らがたとえば地元ネパールの料理を前面に出すなどの冒険をおそれ、ひたすら前例を遵守するのは、1〜3年という短いスパンで更新される居住許可の審査に通るためには確実に収益を出さねばならない・失敗が許されないという不安があるためだと本書は指摘する。
 タンドールもそうだ。名前のとおりタンドリーチキン・それにナンの調理にも欠かせない大型の窯タンドールは、より簡単なチャパティなどが主流のインド本国を超えて日本で大々的に普及・定着した。その理由として挙げられるのは、入管の審査で提出する店内設備の写真にタンドールがあればキチンとした店だという判断材料に「なるのではないか」という(実は明確な規定ではない)予断だ。お店の近くでよく見かけるチラシ配りも、それで客を呼び込むだけでなく、審査のため「やっておくに越したことはない」実績づくりの側面が強いらしい。
 同様の「これが日本では受けるのだろう」という予断がメニューを固定化し、ナンを巨大化し、無理な価格切り下げにつながる。カナとかダルバートと呼ばれるネパール本来の家庭的な料理はダル(豆)のスープをライス(バート)にかけ回し、カレーやらアチャール(漬け物)やらをどんどん混ぜ込んで食べるもので、今「ミールス」と呼ばれ大人気の南インド風メニューに雰囲気は近いし(豆スープがベースなので味はもっと素朴)いっけん地味だがクセになる味わいが知られさえすれば一気に、それこそ「ビリヤニ」や「ガパオライス」のように一気に普及する可能性はあると思うのだけど…
 日本国内・各地のダルバート(写真みっつ)。矢印はダル。好きが高じて日本人が開いたお店も。
(とゆうかネパール式インドカレーを愛好してきた層にもボリュームたっぷりのチーズナンを食べきれなくなり、野菜主体のダルバートに乗り換えたくなる日はきっと来る(泣))
 著者みずからネパール本国まで足を延ばした取材記も興味ぶかい。ムグライ料理の語源が(タージ・マハールの写真とともに)教科書で習うムガール帝国であるように、日本の「インネパ」店に多くの働き手を送り出しているガルコット地方は別の読みかたではグルカ=独特の形状と殺傷力で知られる「グルカナイフ」を操る精鋭グルカ兵を輩出した地でもあるとか。読み手の関心によって異なる見どころが味わえる、それこそよく混ぜたカレーのような好著と言えましょう…とか上手そうなことを言うと「終わり」っぽいけど、今週の日記(週記)はもう少し続く。

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 おかしいなあって思う。みんながんばってるのにね(『カレー移民の謎』)
 排外主義者みたく移民の人たちを蔑視しないし、逆に「可哀想なひとたち」と極度に憐れんだりもしない…そうスタンスを明確にし「ドロドロした部分もあって、そこをほじくり返されるのは本意ではなかったかもしれないが」と気にかけつつ彼ら彼女らのしたたかなところ・逆に弱いところなどもフラットに綴る著者だけど、それでも日本の入管行政・移民政策はおかしいという認識に、ならないほうが不自然なのだろう。
 同じ著者のルポ コロナ禍の移民たち(明石書店2021年/外部リンク/今回あまり言及できないけど、これも好著)を続けざまに読んだタイミングで
 絵的にはナンやカレーを横に並べたかったところですが『カレー移民の謎』『コロナ禍の移民たち』本だけ並べた写真。後者は図書館のシールつき。
YouTubeのオススメ動画にゲストとして著者・室橋氏の姿が。
【新大久保】東京最大級の移民街に潜入、若い女性客が集うコリアンタウンの知られざる実態とは《村田らむの日本DEEP探訪#7》(楽待・YouTube/外部リンクが開きます)
【移民の街】円安の波で出稼ぎの外国人が苦境に?多様な人種が集う「新大久保」のリアル《村田らむの日本DEEP探訪#8》(同上)
DEEP・アングラと呼んで何かと話を「ヤバい」方向に持っていきたがる(?)ホストに随所で「今はそんなことない」「地元の日本人とも協力しあってやっている」と釘を差す室橋氏、二本目の最後のほうで「新宿・大久保じたい江戸時代に地方から出てきた武士が集住して出来た街(百人町の地名の由来は鉄砲百人隊だそうな)、戦後も各地から人が流入してきた=同じ他所者どうしじゃないかと言う日本人住民も多い」でまとめる動画、いい塩梅だと思いました。また、コリアン・ネパール人・フィリピン人・ベトナム人…さまざまな民族が入り混じった大久保のにぎわいに、ビジネスとして日本人も参入したらいいのに・日本人ならではの細やかなサービスは需要があるはずだという見解に、移民たちのバイタリティに対して引っ込み思案な日本人たちへの歯がゆさが見え隠れするのも面白い。
 (外国人は騒音が…というテンプレの苦情に対し、日本人が安らぐ「閑静な住宅街」を南アジアの人々はむしろ怖がる・騒がしいほうが安心するのだという指摘は目ウロコだし、たぶん人一倍に集団の騒がしさが気に障ってしまう僕などは寂しかったりもするのだが、それはまた別の話)

 2021年に出版された『コロナ禍の移民たち』は、さまざまな自助努力で苦境をやり過ごし、逆に日本人が消極的な間に新大久保などの条件のいい不動産を積極的に買って出た移民たちは「コロナ禍に打ち勝った」と結論づける。だが彼ら彼女らに扉を閉ざし続ける日本社会そのものを前にはどうだったか。
 外国人が日本社会の一員になるのは実質的に難しい」「いつかは帰る人って扱いなんですよね…3年後の『カレー移民の謎』は「グリーンカードや国籍が取りやすく、出生地主義なので子供が生まれたら国籍が取れる」カナダやアメリカにカレー移民たちの心が移りつつある現状をレポートして結ばれる。
 日本に定着し永住権を取得した人たちすら、税金の滞納などを理由に追放しようという改悪入管法。
 外国人を「いつか帰る」扱いすることで、刹那的になり荒むのは「来る」外国人ばかりではない。受け容れる(というか受け容れないのに利用だけする)側の日本人も「インネパは贋物」と見下しながら安いランチはちゃっかり利用する利巧者のつもりで、見下してるコピペ食品にしかありつけない貧しさに閉じこめられてはいないだろうか。もちろんカレーだけでなく社会全般の話をしている。
 僕の見立てでは、少なからぬ人たちが、これからもっと貧しくなる。そのとき頼りになるのは多額の広告費が上乗せされたアメリカやヨーロッパのブランド品やコンビニスイーツではないと思うのだけど。
 個人的には地元の「インネパ」は贔屓のお店だしチーズナンも大好きです、というキャプションと、近所の「インネパ」店の豪勢なランチ写真二枚。それぞれ二種のカレーにタンドリーチキン・オレンジのドレッシングがかかったサラダにデザートのヨーグルト・そしてナン(片方はチーズナン)
【今週のまとめ(2)】やや軽侮のように「インネパ」と呼ばれるカレー屋が今後急速に(ダルバート屋に生まれ変わるなど発展的な形でなく)担い手であるネパール移民ごと姿を消すとしたら、衰退してるのは日本のほうかも知れない
【今週のまとめ(3)】何につけ「二流」「まがいもの」と小馬鹿にしながら「安いから」「タダだから」「安易に欲を満たしてくれるから」と依存するのは止めましょう。利巧なようで不毛な生きかたです。

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 そして上に紹介したYouTube動画によると、コロナ以来、訪ねていない大阪・西成に関帝廟が出来たとか。大手リゾートによる再開発より、そっちのが僕には好ましいので一度は再訪してみたい。

(24.5.21追記)部屋で探して見つからないと思った物品が、諦めて外でスペアを買ってきた途端ひょんな処から出てくるように―「見かけない」と書いて文章をアップした途端に見つかるんだなあ。横浜中華街でも見つけました、和興白花油。真っ赤や金色の縁起物っぽい飾りを商ってる=あまり自分には御縁なさげなお店のショーウィンドウの端っこに「あ、醤油膏(とろみがあって甘辛な台湾の醤油)が業○スーパーより50円ほど安い」と入ったら、醤油膏ほか食材を並べた棚の下のほうにタイガーバームなんかと並んで白花油が。流石は中華街。別系統のやはり万能アロマオイル・緑油精もあったので気が向いたら今度はそちらを買い求めるかも。

小ネタ拾遺〜24年5月(24.5.31)

(24.5.3)【受領は倒るるところに百合をつかむ】ベクトルは違えど往年のビビッド○ーミー並みに鬱陶しいch○c○ZAPのweb広告(しかも動画で45秒くらい続く)だがウィングを広げようと漫画仕立てで登場した新CMを見て、世の中に誰か一人くらい「千代○ 咲19歳の百合イラストを描く馬鹿がいてもいいのではと思った次第…
 「咲ちゃん肌すべすべー腹筋のつき具合もほど良くて(さすがチョコ○ッ○)」とガールフレンドにおなかをさすられ「そ…そうかな?」とうろたえる千代○ 咲19歳 今モテ期です…!?というイラスト。
(追記)漫画路線、第二弾までは出たけど続かなかったみたい。

(24.5.6)恥ずかしながら訂正。北陸新幹線の開業・延伸に伴うJR普通線の廃止によって18きっぷで金沢方面に向かうルートは完全に断たれた…というのは間違いだったらしい。かくかくしかじかと岐阜出身の父に話したところ高山本線で富山まで行けない?
 路線図。説明は下記のとおり。
調べてみたら、行ける、行けますよ岐阜から富山までJRの普通列車で。ジョルダンで「横浜〜金沢」を検索しても出てこないルートだけど、分割して「岐阜〜猪谷(高山南線)」「猪谷〜(高山北線)」で問い合わせると、たしかに出てくる。
 とりあえず現時点では・岐阜11:45→15:31高山(待ち30分)16:02→17:05猪谷17:21→18:23富山というダイヤが最も効率的。富山から金沢までは第三セクターで1時間1300円くらい。20時すぎの金沢に駆け込んでもいいし、富山で一泊してもいい。ずっと山の中だから景色も面白いよとは父の言。んー、夏の18きっぷ旅行は熱くて(暑くて、と一発で出なかったけど間違いではない気もする)無理と思ってたけど、ワンチャンないでも無いかも。もちろん能登半島のその先まで行けるのが一番だけども。
(24.5.7追記)念のため確認したら始発前後の朝5時に横浜を出たら18きっぷ=特急未使用でも11時半には岐阜に着くので理論的には一日で横浜から富山まで行けるんだけど、それは旅行じゃなくてエクストリーム・スポーツのたぐいだから(乗車13時間くらい)…
あと土日限定らしいけど岐阜にちょっと気になる本屋が・本屋メガホン(外部リンクが開きます)。

(24.5.9)この札幌の本屋も気になってます。ゲストハウス兼シェルター兼、本屋兼食堂。
ここが安心できる社会のサンプルになればいい ― UNTAPPED HOSTELの場づくり(北海道マガジン・KAI/外部リンクが開きます)
生涯にもう一度くらい小樽を歩きたいし、札幌から夜行バスで函館にも行ってみたいんですよね(言うだけならタダだけど、それ横浜・福島間くらい距離があって水曜どうでしょうで大泉さんとミスターがボロボロになったやつじゃん…)
(追記)札幌→函館バス旅は、むしろ「帰路は函館空港から東京に」とすると新千歳→東京の三倍くらい航空運賃がかかるのがネック。そうそう、そんな感じで前にも挫折した気がしてきた。

(24.5.07)たまには御礼も。本サイトを見てるとは限らないので届かないかもですが
 キャプション「ブックウォーカーのGWセールでRIMの冊子を御購入くださったかた、ありがとうございました。猫夫人も御満悦」に、手を振る軟玉と肩に乗ってまんざらでもなさそうに尻尾を振る猫夫人(こんな時でも描いてたまんが)
コイン50%還元は好いですね、BWは個人出版のばあい販売価格の半分が著者の取り分なので、著者にも半分・買った人にも戻りが半分、ビスケット一枚半分こ・ポッキンアイスの誓いだ…税はまるまる国が取ってくけどな!ともあれ感謝。読んで少しでもお楽しみいただければ尚更。

(24.5.10)うう…ニルヴァーナらを手掛けた名エンジニアのスティーヴ・アルビニが61歳で逝去。その功績を辿る(uDiscoverMusic/24.5.9/外部リンクが開きます)個人的にはゴッドスピードユー!ブラックエンペラーの名盤『ヤンキーUXO』が真っ先に浮かぶし、ボブ・ディランの原曲を粉々に粉砕したP.J.ハーヴェイのカヴァー「追憶のハイウェイ61」(ほかアルバム全部)も捨てがたいけど、たぶん万人が認める代表作(録音)を貼ります↓「爆音を世界一クリアに録るエンジニア」という矛盾した(?)才能、分かりますでしょうか。
Pixies - Bone Machine(外部リンクが開きます)
自身ミュージシャンとしても無二の存在で、日本でも向井秀徳氏(ナンバーガール)など強く影響を受けていたのではないかしら。「MANGA SICK」とか、すごくアルビニっぽいと思います。
(追記)自メモとして音楽サイト・uDiscoverMusicの記事をもうひとつ。
スティーヴ・アルビニからニルヴァーナに充てたメッセージ。『In Utero』制作前の手紙が公開(24.5.10/外部リンクが開きます)
「余計なリミックスはしない」「余分なギャラは求めない」こと音楽に関しては(いっそ傲慢なくらいに)高潔で廉直な人柄が伝わってきます。

(24.5.10)最初からシュレッダーを準備してのパフォーマンス、「挑発」「逆ギレ」「愚弄」と呼ぶべき行為を毎日新聞はイスラエル側に立った見出しで報じるのか。しかも日本は当該の議題(パレスチナの国連加盟)賛成してるのに、それより病院爆撃するイスラエルと学生の平和的なデモを武装権力が制圧するアメリカ側につくんだ、ふーん。
怒りのイスラエル大使 演説中に国連憲章をシュレッダーで細断(外部リンクが開きます)
日本の歴史を多少なりとも知ってるひとの多くが我が代表堂々と退場すを思い出すはずだけど、あれも(侵略戦争に転げ落ちていく)自国政府を翼賛する「新聞社」が言ったことですよな…
僕はそっち側に与したくない。自由なうちは声を上げるし、自由でなくなったら身を潜める。提出期限は5/14で終わっちゃったけど
#freepalestine イスラエル代表を平和記念式典に招待しないよう広島市に要請します!(Change.org/広島パレスチナともしび連帯共同体/外部リンクが開きます)署名しました。
まあ武器輸出や環境省のあれこれ(あれが「環境省」とか真理省なみのサタイアだよな)など見るに、そろそろこの国の行政が平和式典を主催する資格じたい危うい気もするのだけど。

(24.5.12)アメリカのメジャーなミュージシャンで初めて、ガザ停戦を求める学生への連帯を曲で表明したマックルモアの「Hind's Hall」に、YouTubeのコメントだけでも世界中―中東はもちろんバングラディッシュ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、韓国、それに日本などなど―から賛同の声が寄せられている。
 
曲の背景や歌詞の大意はこちら参照:トム・モレロが、「マックルモアの新曲は、レイジ以来最もレイジな曲」とコメント(中略)中村明美の「ニューヨーク通信」(rockin'on.com/24.5.9/外部リンクが開きます)
バックグラウンドに中東全域で愛されているレバノンの女性歌手ファイルーズの代表曲「Ana La Habibi」をサンプリングしているのもリスペクトが感じられます。

(24.5.11)子どもには選挙権も自己決定権もないから、大人は「どうしたら子どもたちが健やかに幸せになれるか」までコミで社会を作らなきゃいけないんだよ。今ごろになって「自民党にお灸を据える」とか言ってるひと、そのへん分かってる?本当に分かってる?…そんな悲しみが、圧倒的なカタルシスとないまぜで打ち寄せる全57ページ。最後の場面の夜明けの街路、歩道橋にガソリンスタンドとファミレスの既視感。たぶん日本のどこでもおかしくない光景だ。
蚊帳りく[特別読切] 勉強はきっとウチらに平等だ!(となりのヤングジャンプ/24.5.10/外部リンクが開きます)
ちなみに花火の黄色は…即座に検索したけど伏せる。伏せるけど、最初に名古屋市科学館のページがヒットして流石と思ったよな(笑。こちら(外部リンク))

(24.5.14)アルバム単位では唯一まともに聴いた『スリラー』の一曲目だから安直といえば安直なのですが、彼の楽曲で自分が一番好きなのは結局コレなのでは?と思いつつ40年くらい気づかなかった
Michael Jackson - Wanna Be Startin' Somethin'(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
3:14あたりでヘッドフォンの右から聞こえる「愛してます」という日本語に酷似した音声。空耳じゃなくて本当にそう言ってる可能性もあるかも…

(24.5.18/加筆少々)日本から逃れた同性カップルがカナダで難民認定というニュース。日本「からの」難民?と目を疑ったひと・とくに百合だBLだとコンテンツの同性愛を消費するだけで「自分は同性愛に理解がある」と取り違え&現実に対して何のアクションも意見表明もしてないひとは、この国で起きてる差別や偏見・「圧」・マイクロアグレッション・制度的にあるいは制度外的に勝手な「裁量」で被る不利益が、難民認定されるくらいの「迫害」だという事実に少しはたじろいでほしい。
もう一度言う。日本はとうとう難民を海外に送り出す側の国になってしまった。それも非民主的な独裁や軍事政権ではなく官民一体の=民衆の自発的な迫害によって。この帰結に、少しはたじろげ。
※当たりが強くなってしまったけれど「権利は一切みとめない」と「コンテンツとして同性愛を消費する」をつなぐ接続詞は「のに(逆説)」ではなく「うえ(順接)」となりうることを少し考えたほうがいいと思う。先月のエイプリルフールなどで同性愛ネタにキャッキャしてた層も。
※○○難民という言葉の軽々しい使用も、今まで以上に自重すべきではないかと。
※これは別の話ですが共同親権とか上川陽子外相の不適切発言とかも、なんなら迫害レベルと思いますよ。上川氏は法相時代のウィシュマさん事件での対応・振る舞いが邪悪だったので、邪悪の上塗りに驚きはないけれど。

24.5.19/すぐ消す)地元ミニシアターでスイスの至宝(だそうです)ダニエル・シュミット監督のデ ジャ ヴュ デジタルリマスター版(シネマ・ジャックアンドベティ/5/24まで/外部リンクが開きます)(1987年)を鑑賞。とにかく主人公がハンサム+斜めに登る路面電車から山上の古城(押韻)・雨宿りする古びた農家まで、ひたすら眼福。物語の鍵となる謎めいた女性が(上記サイトでがっつりネタバレしてますが)キャロル・ブーケなのも嬉しかった。彼女がヒロイン=いわゆる「ボンドガール」をつとめた『007/ユア・アイズ・オンリー』シリーズの中でも(たぶん)異色で大好きなんですよね。とゆうか隣に美女(ブーケ)を載せたボンドが最新装備のスーパーカーではなくオンボロの2CVで、それこそ驚いたニワトリがバタバタ跳ねるような田舎の山道でカーチェイス・そしてラストは古代ローマの海底遺跡で「007なのに実質カリオストロの城」。ちなみにルパンと違ってボンドはいつもどおり最後はくっついちゃうんだけど、演じたロジャー・ムーアのほうが「自分みたいな中年男がこんな若い女性と結ばれるの無理。もう辞めたい」とシリーズ降板を決意したとか…「え、そんなテキトウでいいの」なアヴァンタイトルは御愛嬌。

(24.5.21)階数と階級が比例して一個の社会と化したJ.G.バラードハイ・ライズ』の「超高層」マンションが読んでみたら48階建てくらいで「低っ」と驚いたのだけど(すみません)(1975年作だから仕方ない?)韓国で国産SF隆盛の先駆けとなったらしいペ・ミョンフンタワー(原著2009年/斎藤真理子訳・河出書房新社2022年/外部リンクが開きます)は独立国家と化した674階建てビル・逆に地上1階とか基礎部分にかかる荷重ってどうなのとか(しかも321階に象がいるとか)考えるな自分よ、こういうのが欲しかったんだろう?
 『タワー』書影とキャプション:と言いながら、ここに『ハイ・ライズ』を並べられないカッコ悪さよ…(持ってるのに)#部屋が片づかない
名著(18年12月の日記参照)『目の眩んだ者たちの国家』に寄せられたエッセイ「誰が答えるのか?」でも明らかなように「人々の行動を隅々まで支配しながら(それ自体は)コネや無責任で機能不全を起こしている」現代システムへの不信をベースにしつつ、小説では末端の当事者たちの人間性を対置して仄かな希望を示唆する。とくに独立した短篇としても読めそうな「タクラマカン配達事故」は2009年に描かれた希望が(ネタバレになるので伏せますが)吾々自身の愚かさのせいで無残に打ち砕かれた2024年の今だからこそ輝くし、かつてあった理想を諦めてはいけないのかも。個人的には高層版モンタギューとカピュレットのような「エレベーター機動演習」の顛末にもホロリ。
(追記)『タワー』末尾に収録されたボーナストラック(?)、ありふれた紙コップ入りのコーヒー(テイクアウト)が共同体を崩壊させる「カフェ・ビーンズ・トーキング」がまたエグい。「高度に発達したSFは社会学と区別がつかない」シビれた。

(24.5.24)韓国といえば、事件から十年ということでテレビか何処かでセウォル号のことをやってたらしい。あれがいかに酷い事故で制度も無茶苦茶だったかと(それは確かに事実だったにせよ)声高に話す日本人が、だけどいま自分の国で起きてる袴田事件や入管で起きた一つではない死亡事件については何も語ろうとしないの、やっぱりちょっとおかしいし実はレイシズムなんじゃないかと疑ってもいる。
(同日追記)と、つぶやいた直後に目に飛び込んできたコレ…政府が「ない」と説明してきた浮島丸事件の「乗船者名簿」、やはりあった!(布施祐仁/note/24.5.23/外部リンクが開きます)

(24.5.25)目覚まし。まず朝6時にiPhoneの弱い感じのアラームをかけて二度寝を満喫したあと7時に強めのアラームで起床(←この時点で既にダメ人間)・いよいよ出かけるよ身支度だよの朝8時には標準のアラーム音よりなぜか大きめ爆音めで鳴る
David Bowie - Modern Love(YouTube公式/外部リンクが開きます)
でダメ押しの活を入れている+いつもイントロの「♪どぅぃどぅどぅっどぅチキチキ♪どぅぃどぅどぅっどぅチキチキ…ばばん!!でアラームを停めてるから失念してたけど、その後この曲の歌い出しって外出したくない 家にこもって色々かたづけたいなんですよな…よく今まで惑わされず(ファンとしては裏切りとも言えるが)きちんと外出できてたなあ自分…

(24.5.27)小分けして冷凍しといた白ごはんと間違えて、同じく冷凍してあった刻みタマネギ(それがまた同じくらいの量だったんだわ)をレンチンする程度には疲れ果ててます。来月は持ち直すというか、生活の基礎を固め直したく。

 


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