(24.05.06)今週はメイン日記(週記)休むと言ったな、あれはウソだ。ポール・オースターの訃報を受けて、取り留めもなく。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
こちらから。
休むのは今週のメイン日記でした。いろいろと限界。(24.5.12)
(24.5.18→19)
日本から逃れた同性カップルがカナダで難民認定というニュース。日本「からの」難民?と目を疑ったひと・とくに百合だBLだとコンテンツの同性愛を消費するだけで「自分は同性愛に理解がある」と取り違え&現実に対して何のアクションも意見表明もしてないひとは、この国で起きてる差別や偏見・「圧」・マイクロアグレッション・制度的にあるいは制度外的に勝手な「裁量」で被る不利益が、
難民認定されるくらいの「迫害」だという事実に少しはたじろいでほしい(これは別の話ですが共同親権とか上川陽子外相の不適切発言とかも、なんなら迫害レベルと思いますよ)。本来は有料だけどプレゼントいただいて19日19:35まで全文読める記事→
嫌がらせで退職、母娘と偽り…「これ以上は」難民認定の同性カップル(朝日新聞デジタル/24.5.18/外部リンクが開きます)
※当たりが強くなってしまったけれど「権利は一切みとめない」と「コンテンツとして同性愛を消費する」をつなぐ接続詞は「のに(逆説)」ではなく「うえ(順接)」となりうることを少し考えたほうがいいと思う。先月のエイプリルフールなどで同性愛ネタにキャッキャしてた層も。
※○○難民という言葉の軽々しい使用も、今まで以上に自重すべきと思われますが。
※上川陽子氏(元でなく現外相だったので訂正)は法相時代のウィシュマさん事件での対応・振る舞いが邪悪だったので、邪悪の上塗りに驚きはない。
(24.5.6/訂正なのでしばらく置いとく/追記あり)恥ずかしながら訂正。北陸新幹線の開業・延伸に伴うJR普通線の廃止によって18きっぷで金沢方面に向かうルートは
完全に断たれた…というのは間違いだったらしい。かくかくしかじかと岐阜出身の父に話したところ
「高山本線で富山まで行けない?」
調べてみたら、行ける、行けますよ
岐阜から富山までJRの普通列車で。ジョルダンで「横浜〜金沢」を検索しても出てこないルートだけど、分割して「岐阜〜猪谷(高山南線)」「猪谷〜(高山北線)」で問い合わせると、たしかに出てくる。
とりあえず現時点では・
岐阜11:45→15:31高山(待ち30分)16:02→17:05猪谷17:21→18:23富山というダイヤが最も効率的。富山から金沢までは第三セクターで1時間1300円くらい。20時すぎの金沢に駆け込んでもいいし、富山で一泊してもいい。
「ずっと山の中だから景色も面白いよ」とは父の言。んー、夏の18きっぷ旅行は熱くて(暑くて、と一発で出なかったけど間違いではない気もする)無理と思ってたけど、ワンチャンないでも無いかも。もちろん能登半島のその先まで行けるのが一番だけども。
(24.5.7追記)念のため確認したら始発前後の朝5時に横浜を出たら18きっぷ=特急未使用でも11時半には岐阜に着くので
理論的には一日で横浜から富山まで行けるんだけど、それは旅行じゃなくてエクストリーム・スポーツのたぐいだから(乗車13時間くらい)…
あと土日限定らしいけど岐阜にちょっと気になる本屋が・
本屋メガホン(外部リンクが開きます)。
扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。
(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
【電書新刊(無料)】3/21の創作同人電子書籍・新作
いっせい配信(外部リンク)に合わせて、2016・18・19年のペーパーまんがを一冊にまとめました。Web上では公開済の小ネタ集ですが、再編集で読みやすくなってます。『
RIMpack 2016・2018・2019±』(BOOK☆WALKER)無料なのでガッついて宣伝でもないし、気が向いた時にどうぞ。下の画像か、
こちらから。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
こちらから。
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)
これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08)
Ain't that peculiar〜ポール・オースター追悼(24.5.6)
またひとつの時代が過ぎ去った感。90〜ゼロ年代くらいの一時期、「本が好き」みたいに自らをアイデンティファイする人々にとって、ポール・オースターは取り敢えず読んでおくべき作家の一人・もしかしたら筆頭だったかも知れない。当時の僕も(たぶん多少は背伸びして)その流れに乗ろうとした一人ではあった。
『ミスター・ヴァーティゴ(Mr.Vertigo)』は英語のペーパーバックで挑戦した記憶があるのだけど、途中で挫折して最後は邦訳で読み終えたような気もする。孤児の主人公が謎の人物ヴァーティゴ氏に拾われ「ain't」という言いかたはやめなさいと矯正される場面があった。
まず学校では習わない、でも洋楽などには頻出する表現だ。
イット・エイント・イージー。エイント・ザット・ピキュリアー。エイント・ノー・キュアー・フォー・ザ・サマータイム・ブルース。イット・エイント・ミー、ベイブ、ノーノーノー。
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Bob Dylan - It Ain't Me Babe(Official Audio)(YouTube/外部リンクが開きます)
ボブ・ディランの
Like a Rolling Stoneのクライマックスに
You ain't got nothing, you got nothing to lose(何も持ってないお前さんに、失なう物があるもんか)とあるように主語が何人称でも、何ならbe動詞や一般動詞かすら気にせず否定は全部ain'tで通せる、こんな便利なものをなぜ、もっと使わないのだろうと中学生の頃から僕はひそかに思っていた。
ダメな理由というかニュアンスが氷解したのは柴田元幸氏による邦訳を見た時だ。ain'tを使うなのくだりは、こう訳されていた−「
じゃねえよ」ではなく「じゃないよ」と言いなさい。適切な訳ってすごい。なるほどねえと納得した。カジュアルな会話や私信・SNSの「つぶやき」などでは使うけど、公の場では推奨されない、みたいな位置づけらしい。
いや、柴田氏ではなくオースターの話。
柴田氏が訳し、紹介するような英米文学の「今」に追随しようという気概も「若いころは自分も頑張ってた」という思い出になった頃、思わぬところでオースターの名に再会したのは数年前のことだ。
最初は売れない詩人としてスタートしたオースターが小説家として成功する前(その駆け出し時代の文章をまとめた『空腹の技法』という文庫は、ややもすると抽象的な後の小説より取っつきやすい面もあり、リリカルで好ましい一冊だったように思う)パリ暮らしをしていた一時期、英語圏ではまだそれほど知られていなかったフランスの文化人類学者
ピエール・クラストルの文章に惚れこみ、英訳の出版を模索していたというのだ。
・
ピエール・クラストルとポール・オースターの「出会い」(洛北出版/外部リンクが開きます)
本サイトでも何度か言及したように思うけど、未開で文明に達しなかったと捉えられてきた部族社会は、逆に文明≒国家の破壊的な力を敢えて避けた「国家に抗する社会」だったというコペルニクス的な洞察を、詩的な文章で遺した夭折の学者だ。たとえば30年前だったらオースターに挑戦していたような(本に真実や生きるよすがを求めるような)本好きが、今だったら手を伸ばしてるかも知れない
高島鈴『布団の中から蜂起せよ』(人文書院2022年/外部リンク)みたいな本がクラストルにも言及してるので「あー、あの」と手を打つひとも居ると思いたい。
いや、クラストルでなくオースターの話。
上で「抽象的」と書いたのは明らかな「誤訳」で、具体的な描写もいくらでもある、けれど何とも言えない不思議なズレかたをした小説を書く人だったように思う。それを的確に表現する語彙が少なくとも今の自分の中に見つからないのだけど―
コロナ禍の初期、すごく社会が終末的な暗さに澱んでいた時期、その雰囲気に相応しい本として再読したいと思ったのが『
サラエボ旅行案内』と、オースターの
『最後の物たちの国で』(白水社Uブックス/1999年/品切/外部リンク)の二冊だった。
前者については
Wikipediaの記事(外部リンク)を読んでもらったほうが早いと思う。後者は、曖昧とか抽象的とかネジがズレてるとか、それこそヴァーティゴ(めまい)のようなと呼びたくなる作風が削ぎ落とされ、(そういう荒涼感も実はずっと伏流していた気もするけれど)ひどくシビアな筆致で描かれたポスト・アポカリプス世界の物語だった。
オースターの訃報は、その後も果たせていない再読を早くという、時の催促かも知れない。暗い時期すら通り越して、なるほどこれが「明るい滅び」かと思わされる今だからこそ。
彼の逝去を悼む。そして彼の作品を愛好していた(僕も含めた)人たちみんなを悼む。僕たちを構成しているのは僕たちが愛好する事物や人々・作品であり、それらが少しずつこの世から取り去られるたび、僕たちも少しずつ、その部分から向こう側に籍を移しているのだ。いつもいつも言うことだけれど、弔鐘は他ならぬ吾々のために鳴っている。さよならオースター、さよならオースターを食べて生きた僕たち。その身体が枯れ果て、心を構成するものが全て向こう側に移ってしまった時、僕たちは向こう側でまた逢えるだろう。…何を言ってるんだって感じですが、(死してなお)かくもヘンテコな考えに人を走らせる作家だったと言えるかも知れません。
金沢で治部煮を食べながら、食堂のカウンターでページをめくっていた『ミスター・ヴァーティゴ』は英語だったか日本語だったか、もう思い出せない。オースターの作品も、ストーリーや細部は忘れ、ただ読んでる最中しあわせだった感触ばかりが残っている。
Pleasures remain, so does the pain. Words are meaningless and forgettable.って本当かも。いや、それもまた別の話だけど。
小ネタ拾遺・24年4月(24.5.3)
(24.4.1)「
ウソでしょ?」と誰かに問いたくなる朝と晩・小一時間ずつサッと来てサッと去るフラッシュモブみたいな豪雨。出かける/帰ってきた時間帯は微妙に外してくれたので「変わったエイプリルフールネタですこと」で済んだけど、だいじょぶですかね今年の気象。
もう基本だいじょばないのは知ってますが、なんというか限度として。
(24.4.3/台湾で地震)花蓮市は扁食=ワンタンが名物らしく。台北駅の地下街なんかにも花蓮扁食ってチェーン店があって、まあ入れなかったんですけど(台北だけでも食べるもの沢山あるから…)
他の街で食べたワンタンは饂飩という名前で、扁食と饂飩をどう使い分けるのかは勉強不足で謎。
何か誰かの助け(寄付とか)が必要で、その誰かが自分だった時を考えて身構えてますが、とりあえず自分の心の落としどころでワンタンの皮を買ってくるなど。疲れてるので調理するのは明日以降。
(24.4.5追記)
台湾花蓮地震 緊急支援(READY FOR/ピースウィンズ・ジャパン/外部リンクが開きます)のほうに小額を寄付しました。
(24.4.4)ネットの動画CMは鬱陶しいと相場が決まっているところ、迂闊にもチョットいいなと思ってしまったatreの広告:
待って君たち同じ人?「だーれだ」「だれ?」で出会って、こっちが続篇?意気投合?↓
【幸せのおすそわけ篇】アトレ スプリングキャンペーン「はじめまして、アトレです。」(YouTube/外部)
(24.4.7)この屋号を見て「つまり
リストランテ・パラディーゾ(オノ・ナツメ)!?」と脳内で即答できなかった自分(十秒くらいタイムラグがあった)、として鈍(なま)っている。
中華系「居酒屋」につき呑めない自分にはアウェーと判断し素通りしましたが、山梨大の学生には親しまれてるといいですね。18きっぷの残り一枚で延ばした足が時間の都合で駆け足(上手くない)一度はじっくり駅周辺を探索したい甲府。
(24.4.8)カレー屋のまかない、前から気になってました。JR横浜線で八王子のひとつ手前・片倉駅の改札を出て目の前にあるハラール食材店・兼カレー屋の「
ランチ限定まかないカレー」写真だと奥に置いてしまって小さく見えるカレー、実際は量も過不足なく野菜ごろごろ味こってりで美味しかった!
・
Rani片倉店(公式/外部リンクが開きます)
八王子と神奈川県内に数店を展開・実はバングラディッシュ料理のお店で、そっちのメニューも気になる処。逆に八王子民にしてみれば「たった一駅」なので(うらやましい)料理も楽しんで、豆とかも買っちゃえばいいじゃない。豆カレーはいいぞ。
(24.04.10/すぐ消す)どうやら同じ誕生日らしいかたが、売り上げの一部がパレスチナ支援になるグッズをご自分へのプレゼントで買われてるのをネットで見て、同じものを注文。
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Free Palestina Tote Bag(コトバトフク/外部リンクが開きます)
あとは本を一冊注文して、神保町で冷やし排骨担々麺を食べる。
(変わった排骨担々麺だな…)(違う)昨日訃報が伝わったベーシストに追いついて、今日から同い年になる。彼より長らえて、彼ほどではないにしても何か残せるかな。
(24.4.12)フミオは訪米の手土産に被災地の輪島塗を持参して晩餐会にY○ASOBI(伏せ字になってない)を公式晩餐会に招くかわりに、辺野古の強行工事絶賛進行中な沖縄出身のDA P○MPを連れていってジョーの前で「USA」を歌い踊らせたほうがストレートに従僕アピールできてよかったのではないか。
(同日追記)サプリメントで被害を生んだばかりの「規制緩和」ですが本命は武器輸出の解禁です、ヨアソビの次は日本のヒアソビにご期待ください、とか(まだ木久ちゃん師匠が番組引退してなかったら「笑点」で言ってたぽいことを…)
(24.4.13)横浜では昨日が最終日だった『
落下の解剖学』途中からずっと(
吉野朔実さんの作品みたいだ…)とばかり考えていた。同時代も今も他にも秀でた優れた作家は沢山いるけど、彼女(の作品)にしか鳴らせない琴線が確かにあった、それがピアノの高音のようにビンビン鳴ってるようだった。「
それはあなたの主観であって事実とは言えませんね?」と反対尋問が来そうだし、自分でも何か過剰に彼女(の作品)を過大評価してないかと思わないでもなかったけど
・
落下の解剖学(GAGA公式/外部リンクが開きます)
いみじくも彼女が描いた主人公・狩野都が「
彼女には人に夢を見せる力がある」と作中で評されたのと同じ力を彼女自身も持ってらしたということでしょう…素敵で悲しい2時間半の夢でした。何の参考にもならん感想でごめん。
(追記:荒んだ話題が目立った今年のアカデミー授賞式で、本作の関係者がパレスチナ国旗の柄をあしらったブローチを着けていたというのも鑑賞に踏み切った理由のひとつでした…)
(24.4.14)むしろ前年度の王様戦隊が自分的には「爆上げ」で、今期はローギアで様子見と言いながら
爆上(バクアゲ)戦隊ブンブンジャー(公式/外部リンクが開きます)、変身前の名前が大也(タイヤ)に未来(ミラー)・変身後のコスチュームは頭部がタイヤホイールと徹底した自動車モチーフのきわめつけに・
二足歩行の人型巨大ロボをハンドルで操縦・そして剣かな?と思った細長い武器が巨大化した敵の武装を解体する
ネジマワシ(ドライバーだけに)という
細部まで目配りの効いたテキトウさ(←どっちだ)わりと好みです。ちなみに武装解除された敵はド派手に爆裂四散する。それが戦隊物。
(同日追記)同じく芝居がかった台詞でも
「恐怖しろ!そして慄け!一切の情け容赦なく、一木一草ことごとく!貴様を討ち滅ぼす者の名は…ギラ!邪悪の王となる男!」な王様戦隊がそれなりにカッコよかったのに今期のタイヤ君
「俺たちはこれからも爆上がってく…ついてこられるかな」には声をあげて笑ってしまうの、演出ってスゴいなぁと感心する。
(追記)何の伏線もなく唐突に辞世の句を詠んで爆散する今週の敵。
「五七五だけど季語がないわ」(そこ?)とツッコミでボケる敵幹部1と
「ムキー(無季)
!憶えておけブンブンジャー」と拾う敵幹部2、いい仕事だ…
(24.4.15)誰も騒いでないのは誰も気にしてないからかも知れませんが、もう
新型コロナのPCR検査は(発熱後などで保険が適用される場合を除き)
全額自己負担で20,000円〜みたいな処しかないって知ってました?それで皆さん大丈夫なの?だいじょばないの自分だけ?あと私事だけど、余裕が出来たら本描きしようと思ってたネーム、注釈つけないとダメ?
(24.4.18)時がすでに一瞬のうつろいとして過去に押し流したはずのものを数十年ほど記憶=脳内のシナプスの配列という物理的なかたちとして現在にとどめる(そして数十年とどめた後その配列もバラバラにほどけていく)ひとが生きるとは宇宙の終焉に向かって刻々と進む時間の流れに生じた局所的な遅滞であるかも知れず、あまりにささやかなそのタイムラグが、けれど私たち一人一人がこの世に生きた証であった。生を慈しめ。
(24.4.21)昨日の改定入管法・施行反対渋谷デモ、参加できないけど賛同する人数を可視化するということで皆が風船を持ったのだけど、風船の群れを人に見立てると
舟崎克彦『
ぽっぺん先生の日曜日』を思い出さずにはいられない世代…世代?
下↓は自分のプラカ。当事者が実際に強制退去の瀬戸際にいる中、暢気すぎる(でも反対の後にどういう社会にしたいのかというヴィジョン提示のために使い続けてる)オモテ面でなく、昨日は今の切迫した感情をぶつけた裏面をずっと外に向けていた。気候変動とか、北陸での震災被害者の救援放棄とか、他の案件にも言える話だよなあ=すべてはつながってるのかも知れないと連想する想像力を見たひとに求めるのは期待しすぎか。
(24.4.23)罪悪感のないお菓子といえば自分にとっては餠太郎30入パックなのだけど(最近はどうかすると「うまい棒」より安いし、まだ幾分ヘルシーな気がする)東京・神田の昔からあるような日本茶のお店がにぎやかしで店頭に置いてるのを、本来売りたいだろう静岡茶とかスルーして「これ(だけ)ください」と購うの、少し後ろめたかった※最近「まちおか」やドンキで売ってないんですよね
かように安物買いが好きなので、円安でどっと増えたと言われる来日観光客を責められはしないよ…どちらかというと同志だ、いい思い出を作ってくれ。とくに子ども連れ。
(24.4.23)THOUSAND BOOKSのクラウドファンディングで電書を一冊、予約しました…
トランスジェンダーの二人がオープンに語る韓国発のコミックエッセイを翻訳出版したい!(外部リンクが開きます)同じ版元で近似テーマの『
ウィッピング・ガール』(
3月の日記参照)が面白かったのと、とくに「マラン」の絵柄が可愛かったので。
(4.28追記)プロジェクト成立・目標額の110%達成でフルカラー版での出版が決定。年末が楽しみ。
(24.4.25)むしょうに外国語をワシャワシャ読みたくなって誕生日に注文していた洋書が到着。思ったよりコンパクトな外見に価格や送料・到着までの時間で、なんだか同人誌を買った気分に。たぶん生涯で一番多く聴いた二枚組(一時期、入眠BGMにしてたから←こらこら)
エイフェックス・ツイン『アンビエント・ワークスII』の評論書で、どこぞには「
ぜんぶWikipediaで確認できるような内容」みたいな酷評もあったけど、いいんです人生の記念だから。開いてみると冒頭から「
この本にIはない」とぼけた書き出しに、ゆるく愉しい読書を期待。
ちなみに大きさ(小ささ)比較のため置いたCDは、これも二枚組の名盤
ゴッドスピードユー!ブラックエンペラーのセカンド(
長いのでタイトル省略)なのですが、最近みかけたパロディ、卑怯がすぎる…
(24.4.29/すぐ消す)この訃報はXを続けてても自分までは届かなかったかもなあ…カンの二代目ヴォーカリスト・ダモ鈴木さんが2月に逝去されてた。晩年の精力的な活動を綴った回想文を自メモとして:
追悼:ダモ鈴木(松山晋也、小柳カヲル/ele-king/24.2.13/外部リンクが開きます)
YouTubeで何度観たか分からない(今回も久しぶりに見てコメント欄で逝去を知った)スタジオライブ映像を手向けに。全編ヤキ・リーベツァイトのドラムが圧倒的な存在感を見せつける中、最後に一番いいところをさらっていくダモ。
(あと演奏しながら時々メガネを直すイルミン、いいよね…)
(24.4.30追記)BOOK☆WALKERの電子書籍コイン還元セールで
田中ユタカ愛人[AI-REN]特別愛蔵版(上下巻/外部リンクが開きます)を購入して一気読み。
昨年7月の日記で
「どの小説も「事態は君の想像以上に複雑だ」と読者に語ります。これが永遠に変らない小説の真実です」というミラン・クンデラの言葉を引いたけど、それと対になるような?
「まんがのストーリーとは『示されたキャラクターの、かくされていた(より深い)別の面があらわになる』です」という発言を知って以来、その代表作が気になってたんですよね…
だからという訳でもないんだろうけど想像してたのと全然ちがう、
芦名野ひとし『
ヨコハマ買い出し紀行』を読み直したくなるようなポストヒューマン黙示録SFでした。登場する国連総長(褐色肌の女性)の名前が「
カレルレン」でも分かるようにアーサー・C・クラーク『
幼年期の終わり』への、容赦ないレスポンスでもあり。そしてむしろ「隠されていた本性」を裏切って、当初そうではなかったはずの「より深い」ものに転生していく登場人物たち。堪能しました。
近代と差別〜ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(24.4.28)
※今週の日記、
「茶文字+斜体の引用部分」は注記あるもの以外すべて『史的〜』からの引用です。
* * *
【今週のまとめ1】近代経済史の泰斗ウォーラーステインは30年も前から「
トリクルダウンとか嘘だし」と指摘していた。(まあ嘘だよねと勘づいていたとはいえ)その嘘で奪われた30年に、改めて吾々は怒っていい。
【今週のまとめ2】お金の前に万人が平等でもよさそうな資本主義が、なぜかレイシズムや性差別と親和性が高い謎、やはり「むしろ差別こそ資本主義の原動力」でいいみたい。いや、よくはない。差別をやめろ。
【今週のまとめ3】W(長いから略した)の『史的…』岩波文庫で読めるのはありがたい。読めますよ。
1.
魔女とおじさんたち
まず西欧で資本主義を「離陸」させ・ひいては世界中に「着陸(?そんな言いかたないけど)」させた原動力は蒸気機関でもプロテスタントの倫理でも、新大陸がもたらした銀ですらなかった。資本主義の原資は、村落共同体の経済的自立を破壊し、奪って得られた汚れた黄金だ―
昨年10月の日記で取り上げた
シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』(原著2004年・
邦訳2017年←外部リンクが開きます)の、怒りをこめた告発だ。
もちろん収奪には、アメリカン・ホロコーストと呼ばれる新大陸での先住民虐殺とアフリカから無理やり連れてきた奴隷たちの搾取が含まれる。だが新大陸の搾取を待つまでもなく、ヨーロッパ内部で共同体の破壊による資本主義の「原始的蓄積」は始まっていたとフェデリーチは指摘する。封建時代のヨーロッパ農民を描いた絵画では人々が肉を切り分け、頬張っている。だがブルジョワジーが勃興し、世界が豊かになり始めたはずの時代、人々の食事は逆に穀物中心の貧しいものになったではないか…
他の本を適宜挟みつつ二年かけて『失われた時を求めて』を読了したのが昨年。続けて(また他の本を挟みつつ)ついに手をつけたのが
フェルナン・ブローデルの大著
『地中海』(原著1966年→浜名優美訳・藤原書店1991年〜/外部リンクが開きます)。ちなみに形見分けの頂き物。まあそれはいい。
フェリペII世の時代=16世紀を中心にした同書に、件の「ヨーロッパの食事が貧しくなった問題」への言及があった。ブローデルの見解は「人口が増えたため牧畜より取れ高のいい農業に切り替えざるを得なかった結果」という身もフタもないものだった。『地中海』、
3月の小ネタでも書いたように(明るそうな表題に反して)現実の地中海・かなりトホホで厳しかったぜという本なのだ。
イマニュエル・ウォーラーステイン(1930-2019)はブローデル入門みたいな本も書いていて、両者の関心・歴史観は重なっているようだ。吾々がみな資本主義の歯車=フルタイムの賃労働者に「なった」理由を、「された」と糾弾するフェデリーチとは異なる視点で解き明かすW(長いので略)の見解もまた、身やフタがない。生活をすべて賃金に依存するフルタイム労働者は、つまり賃金だけで生活できる高い報酬を求める。自作農や手工業・小商いなど他に収入と生活のアテがある層は、相対的に賃金に多くは求めない。言い替えればフルタイム労働でない労働は安く買い叩かれる。より高い賃金水準を求めてフルタイム就労を推し進めたのは、むしろ(経営者ではない)働き手のほうだった…と彼は言うのだ:
「完全にプロレタリア化された世帯よりも、半プロレタリア的な世帯の方が遥かに厳しく搾取されることを、かれらは十分に理解していた(中略)
プロレタリア化の背後にあった大きな力のひとつは、ほかならぬ世界の労働者層そのものだった」
二人の大家・おじさんたちはフェデリーチに反論しているわけではなく、てゆか両者の見解のが『魔女』より早い。怒れる活動家の議論(魔女)だけ読むと、悪辣な資本家による陰謀や暴力的な強制に見えかねなかった食の貧困や賃金奴隷化は、トップダウン(だけ)ではなく逆に
下から自発的に悲惨になった、行動経済学が言う
不合理な選択だった(
側面がある)と知れる。
これは勿論、(今のグローバル資本主義の専横は)人々のやむにやまれぬ自由からの逃走「も」あったということで、結果としての現在の不正義・不平等をチャラにするものではない。科学や民主主義=理系的にも文系的にも旧弊な迷妄を克服した=より優れた制度だったからヨーロッパ近代(資本主義)は勝ったのだという自賛は、近代システム論おじさんもまた一蹴するところだ。彼は断言する:
「資本主義が、進歩的なブルジョワジーが反動的な貴族を打倒した結果として勃興してきたというイメージが間違いであることはすでに論じた。そうではなくて(中略)
古いシステムが崩壊したために自らブルジョワジーに変身していった地主貴族によって生み出された、というのが基本的に正しいイメージなのである」(強調は引用者)
2.
トリクルダウンはない
というわけで
ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(原著1983-95/川北稔訳・岩波文庫2022年/外部リンクが開きます)。ブローデル同様、主著は分厚くて何冊組で価格的にも優しくない大家のエッセンスを凝縮した本(たぶん)が、千円札一枚で買えてしまうのはとても良い。フランス革命やロシア革命など過ぎ去った歴史でなく、社会的には同時代と言える・近年ますます問題性が高まっている問題(←
もう少し類語辞典とかで語彙を増やそうな)を扱うアクチュアルな本が岩波文庫に入るというのも。
1983年の表題作に、1995年の「資本主義の文明」を併録。この第一章「
バランス・シート」をまず一読するのが好いかも知れない。「そうは言っても資本主義でみんな豊かに健康に安全になったでしょ?」という擁護に根本的な疑問「本当にそう?」を突きつける小文だ。たしかにペストは一掃されたけど、エイズや新しい感染症それに公害や環境破壊による健康被害は?現代の戦争や圧制が「野蛮な」封建制や君主制より大量に人命を損なってるのは明白ですよね?「でも少なくとも、みんな豊かにはなったじゃない」…
世界的規模で見たらどう?
「資本主義の文明では、剰余価値の分け前に与った人の数は、はるかに大きなものとなった(中略)
が(略)
世界的にみれば、この階層は、おそらく全人口の七分の一をこえたことはない。(略)
おそらく、「資本主義的世界経済」を構成する諸構造体に生きる人口の八五パーセントは、五百年ないし一〇〇〇年まえの労働者と比べても、より高い生活水準に到達しているとはいえないことは明白である。(略)
かれらはやっとその日を過ごすために、以前より厳しい労働に従っている。〔自給することができずに〕購買しているものの量そのものは増えているにもかかわらず、食物の摂取量は減っているのである」(強調は引用者)
少なくとも資本主義の社会でもたらされる「豊かさ」は、その社会全体の豊かさではない。物価高や実質賃金の低迷・破滅的な円安の中、東証株価の高値だけで「明るい」と喜んでいる国に暮らしていれば、イヤでも分かることだろう。留保a:それでも日本はこの数十年「分け前に与った」豊かな階層に含まれていたことは確かだ。留保b:「少なくとも」と書いたのは、著者に言わせれば大抵の社会は一部の者が富を独占するシステムだからだ。
それでも古今東西の不公正なシステムの中でも、資本主義は群を抜いて冷酷だと彼は明言する。それは・生産の全面的な賃労働化・消費生活の完全な商品(貨幣)経済化と併せて、資本主義を定義づけているのが(豊作なり搾取なりによって得られた)余剰・利潤・蓄積が投資に回される=
「資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として使用される」システムだからだ。資本「が」と書き換えたいところだけど、引用なので仕方がない。そして実は「自己増殖」がカギだ。資本主義の搾取や不公正は深刻なもので、しかも常により酷く悪化していると著者は本書のはしばしで繰り返す。当然だろう。より生産的に・より豊かになることを使命とする社会システムが、その利潤を(地下資源やイノベーションではなく)単に富の移動=収奪から得ているなら、絶えざる格差の拡大もまた資本主義≒近代の本性ではないか。
3.
差別と資本主義
本書を「バランス・シート」から読んだほうがいい(かも知れない)理由はもう一つあって、表題作「史的システムの〜」では大きなトピックだった社会主義が、21世紀も四半世紀が経とうとしている現在だと(とくに若い読者には)ピンと来ない可能性も高いからだ。
20世紀には世界を大きく二分する対立項だった西vs東・資本主義vs社会主義も、後者が自壊し(冷戦終結)グローバル資本主義に回収された今となっては同じ夢のアプローチ違いに過ぎなかった―という意味で、ウォーラーステインの立場は先週とりあげた
バック=モースと呼応している:
「驚くべきことは(略)
マルクス主義者たちが(略)
自由主義者たちに負けず劣らずの情熱をもって、進歩を信じたことである」
これも古い喩えで分かりにくいかも知れないが、彼に言わせれば生産性増大を至上とする社会主義体制のエートスは(アメリカの)テイラー主義そっくりなのだった。ヘンリー・フォードがソ連では英雄だったというバック=モースの指摘が思い出される処だ。
…社会主義国は兎も角、自由主義=資本主義の陣営にとって豊かさの増大とは搾取の増大だった。
「史的システムとしての資本主義は、明らかに馬鹿げたシステムなのである」と言い切る著者の怒りが頂点をマークするのは、そのエンジン(ポストモダン哲学者ふうに言うなら「機械」)の中心にあるギアは人種差別(レイシズム)に他ならないと看破するくだりだ。
「ここでいう人種差別とは(略)
先行する諸システムにおいてもみられた排外主義(ゼノフォビア)のことではまったくない。排外主義というのは、文字通り「よそ者」への恐怖であった。これに対して(略)
資本主義における人種差別(略)
は、不平等を正当化する万能のイデオロギーとして作用してきた」(強調は引用者)
封建制を倒して世界を制した資本主義=「自由」主義では万人が平等で、成功するか(豊かになるか)否か(困窮するか)は個々の能力次第だという建前はグロテスクに逆転して、ある民族(人種)やジェンダー(女性やトランスジェンダーなど)が社会の底辺に位置づけられているのは、彼ら彼女らが
「生物学的にも、文化的にも」劣っており
「機会を提供されても、イニシアティヴを発揮してこなかった」からだとして、人種差別や性差別・それに基づく搾取が正当化される。その利益の源泉が搾取である以上、そして絶えざる利益の拡大が死活問題である以上、資本主義は本質的なところで、差別される底辺の人々を、むしろ必要としているのだ。
上のくだりではバック=モースと呼応していたウォーラーステイン、ここでは
ドゥルーズ=ガタリと呼応してて少なからず驚いた。しかもフランスの哲学者と活動家が、噛み砕いても「
差別主義者は異分子を排除しているのではない。むしろ少数者が異邦人であることを認めぬまま自分たちの価値観に組み入れ〈劣った吾々〉として押しつぶす」…原文ではもっと抽象的に(
15年2月の日記参照)述べ立てていることが、よほど分かりやすく社会・経済の問題として把握されている。
だったら早く言ってよ!とは言わないが、今まさに施行されようとしている改悪入管法・永住権の剥奪や呼応して起きている差別の声が、この国の経済が搾取しやすい外国籍の労働力をより欲している・その必要の増大とワンセットで高まっていることは注意されていい。
たぶん
今週の日記でいちばん大事なことなので繰り返す。「買い叩ける労働力としての外国人がもっと必要だという損得勘定」と「奴らは劣った人種だという蔑視や差別」は相反ではなく共犯・同じ身勝手の両面なのだ。
余談だけどW氏、本書で人々の賃労働者化について語った節で
「ちなみに、現金収入が絶対に不可欠だという状態は、しばしば法律によってつくり出された」とも指摘してて、これもかつてドゥルーズ=ガタリが「
交換だけなら物々交換で済んだ。貨幣が必要になったのは徴税のためだ」と唱えていたのと呼応している…
4.
楽園をめぐる戦い
僕が本書を知ったのは
先月の名古屋旅行で買い求めた
HAPAX II-1(以文社/外部リンクが開きます)での引用からだった。国家の税制が徴税で集めた巨額の資金を(公的な援助の形で)巨大資本に優先的に再分配する・
「すでに大資本をもっている人びとの方が(中略)
、恩恵には圧倒的に浴するのに、それに要するコストの方は、それより遥かに平等な課税制度によって支払われてきた」「むしろ分配の格差を拡大するメカニズム」だという本書のくだりは、たしかに
「中高生に是非とも読んでもらいたいと思うような名文」(前掲誌所収・桐ヶ谷才冗「ベルクソニアン・アナーキズム宣言」)と絶賛されるに足るだろう。現にこうして
中高生ならぬ中高年(上・手・く・な・い!)を書店に走らせた。
【今週のまとめ4】本を読み、気になった本をさらに読む満足は、積ん読や「いいね」「RT(リポスト)」では得られない。
本書でウォーラーステインは資本主義をひどいシステム、ひどく非人道的なシステムだと繰り返している。重要なのは、そのひどさが拡大再生産される(がゆえにとてもひどい)ということだ。資本主義の本質が格差なら、格差もまた拡大されると考えるのが順当ではないか。
先週の日記の終わりにリンクの形で蒸し返した、
「格差の縮小を良しとする」のがリベラル(僕に言わせれば「左翼」)
の定義だというアイディア(
垂水雄二『進化論の何が問題か』昨年4月の日記参照)は、結構バカにならないようだ。つまり逆に右なり保守なり資本主義なり家父長制なりは格差の「
拡大」が本分だと考えると、今の社会が世界規模で加速度的におかしくなってるのも、自国内の被災地が見放されて万博やら裏金やらに巨額の税収が投下されるのも説明がついてしまう。
資本主義に現状維持はない。それは差別なら差別・格差なら格差のさらなる拡大を求める正のフィードバックだ。そして今は、自分はまだ格差で得する側だと考える人(あるいは単に生き延びたい人々)が、さらなる利得を求めて現行の制度に与するほど、国家や与党・勝ち組となることを煽るインフルエンサーに自己を同一化するほど、逆に格差は広がり・つまり利益を独占できる層は狭まって、こぼれ落ちる層が拡大するターンなのかも知れない。
経済的な自立を自発的に手放し賃労働者化したのと同じ轍だ。
だとすれば「与党は泥棒」などと憤怒をぶちまける人たちが、返す刀で女性や性的少数者・外国人や(自分より)困窮している人々に八つ当たりするのは、
ガソリンで火を消そうとするくらい事の脈絡を間違えている。
いちおう断っておくが、このままだと偉い人たち(与党やら経団連やら)の無理にも限界が来て、何もかもが木っ端みじんに爆散する…そんなことを心配しているのでは、ない。むしろ恐れるのは、たとえば戦争が起きても、大地震で原発がどうかなっても、公的年金の破綻がとつぜん宣言されても、さほど顔ぶれの変わらない上位メンバーは相変わらず利権の独占を続け、それ以外の人々の困窮も底なしにエスカレートしつづける、そんな格差の拡大が何百年も何千年も続くことだ。
昨年『悲しき南回帰線』を読んで以来(
今年1月の日記参照)、インドのカースト制度・そこで最底辺に置かれた人々の悲惨が「それはそれで社会的なソリューションだった」という中年レヴィ=ストロースの悲観的な諦念が頭に焼きついている。あるいは「何もしなくても世の中はいい方に進む、
と思ったら大間違いだ」という
ショーン・フェイの怒りをこめた告発が(
23年2月の日記参照)。
何千年・何百年は大げさにしても(
しかし資本主義の世界下で「七分の一」に数えられない人々の困窮は現に数百年つづいてもいる)変えようとしない限り、今の気が滅入る「まばゆい惨めさ(あるいは光の牢獄)」はずっと続く、簡単には御破算になってくれないことを僕は心配している。最後は思いのほか辛辣なブローデルの一節を引こう。
「病人はそんなに早く死なないのだ。病人はかつての体力を取り戻すことは決してないが、長生きをする」(『地中海』第III巻4章)
* * *
そんなわけですので、今日(4/28)上野での改悪入管法・施行反対のデモに参加できなかったのは痛恨だった。声を上げるチャンスは限られているのに。
答え合わせ〜スーザン・バック=モース三題(24.04.21)
【例によって無関係なマクラ】
夢の中に出てきた本を目が醒めてから探して読んだ体験・の話を先月したばかりですが(→
参照)、いま見た夢では(寝てました)このサイトに書く文章を練っていた。
徳間文庫版の筒井康隆『旅のラゴス』に
鏡明氏が寄せていた解説の「本作は刮目すべき(驚異的な)世界の物語だが、図書館のエピソードあたりを転回点にして刮目すべき(偉大な)主人公の物語に変わっていく」を敷衍して、夢のなかの自分は
宮崎駿の『
シュナの旅』もそうだ・センスオブワンダーに満ちた「世界」の物語が魂をもった「人間」の物語に変わっていく、『シュナ』の場合、転回点はテアの妹がくるくる回って踊る場面だと書き進めていたように記憶する(←夢なのでもう記憶が雲散霧消しつつありますが)。
目が醒めてから「
そうかあ?(そんなに上手く説明できるかなあ)」と思い直したので。
また(石原慎太郎が死んだ時、あの差別主義者を・あるいはあの差別主義者が体現していた差別を擁護したい勢から「誰かが死んでから悪口を言うのは卑劣だ」みたいな声があがっていて「何おう」と思って)筒井康隆の引導は彼氏が生きてるうちに、(『ラゴス』ほか好きな作品も少しはある自分が)キッチリ渡しておこうと日ごろ文案を練ってもいるのですが、
今週はスーザン・バック=モースのことをまとめておこうと思う。
もう更新はしないし自分が属していたタイムラインも全く見なくなったのですが、別件でX(旧ツイッター)をのぞいてたら、珍しく過去の自分のツイートが「いいね」されている。読んで「なかなか面白いし、あっちゃこっちゃ収拾がつかないサイトの文章よりキレイにまとまってる」と思ったので再録です。
あと本サイトでは、この無視しがたい論客に正面からキチンと言及した項がなかったように思うので。
* * *
1.『
ヘーゲルとハイチ』(2018年6月・連続ツイートの再録)
どこの誰とも知らないひとが「いいね」していたツイート(今で言うポスト)はコレ:
哲学者カントは、星を眺めると心が感嘆と畏敬の念で一杯になると語った。ヘーゲルは詩人ハイネに対し「星なんて、空の吹き出物が輝いているだけだろう」と不満げに述べたという。「しかし」とスーザン・バック=モースは言う。「大西洋横断の困難に耐えた者にとって、星は生き延びること、そのものだった」
吾ながら、いい書き出しだ(笑)。
「ツイート」は一回に使える字数が140字しかないので、長いことを書きたいときはツリーとしてつなげていく。あんのじょう上記のツイートにも続きがあって、以下こんなふうに続く:
スーザン・バック=モース『ヘーゲルとハイチ 普遍史の可能性にむけて』(原著2009年→岩崎稔・高橋明史訳/法政大学出版局2017年/外部リンクが開きます)やや駆け足で読了。
星を頼りに大西洋を渡った者たち…米大陸への植民者と、奴隷たち。フランス革命直後の1791年に蜂起・黒人の共和国を打ち立てたハイチ。
著者は西欧近代の哲学や政治・経済や産業が、植民地における奴隷労働に(銀や綿花などの経済的な原資だけでなく)多くの思想的アイディアを負いながら、その影響や存在そのものを抹消し「西欧が唯一の中心として牽引し成立させた近代」という物語を打ち立てたことに異議を唱える。ミステリのようにスリリングで挑発的・安易な答えに飛びつくことを慎重に拒みながら、歴史把握の刷新を図る。ゆっくり再読吟味したい一冊。
…「ミステリーみたいにスリリング」というフレーズは同じ著者の『夢の世界とカタストロフィ』でも使っていて、また当時の自分は(『ハイチ』では)「ハイチの革命指導者ブークマン、もしかして…というあたりが
刃物で撫でられるようなゾクゾク感でした」と書いてるのだけど
6年後の自分、何のことだかサッパリ思い出せない…んー、手元にある本ではないので図書館で確認せねば。
2.『
夢の世界とカタストロフィ』(2018年5月・連続ツイートの再録)
今回はバック「=」モースと表記してますが、岩波書店で発行された本書の表記はバック「-」モース、岩波のサイトではバック「・」モース→
『夢の世界とカタストロフィ 東西における大衆ユートピアの消滅』(原著2000年→堀江則雄訳2008年/外部リンク)は東と西=ソ連とアメリカ合衆国の相克を、同じフランス革命を起点にもち「
産業の発展が大衆を幸福にする」という夢を
正反対の方向から実現しようとした双子として捉える。
生産が人を幸福にするというソ連の夢。消費が(同)としたアメリカの夢…という見立ては秀逸だ。
映画という夢みる機械で『戦艦ポチョムキン』に代表される群衆像を理想として描いたソ連。人工的な性的魅力を一身に体現したハリウッド女優を大衆の夢の対象に仕立てたアメリカ。夢は欺瞞の別名でもあり実現されぬ夢に人々は傷ついてゆく。
20世紀の悪夢=ファシズムを、東は資本主義の変種として西に押しつけ、西は全体主義という括りで東に押しつける(この見立ても秀逸)。互いを相補的に悪の鏡像としながら、ソ連の五カ年計画はアメリカ工業の輸入で成り立ち(フォードはソ連農民の英雄だった)一方アメリカは…と夢の共犯関係にもあったことが掘り起こされる。
自分が
モーリス=スズキの著作(
17年1月の日記参照)で知り、入管問題や「
例外状態」の別名で何度も言及している
ワイルドゾーン(法が通用せず国家や行政の権力がむき出しになる場)という概念について、本書はフランス革命の時点で不可避的に生まれた宿痾(
初めから革命は裏切られていた)とし、米ソ双方での展開をトレースする。アメリカの侵略・ソ連の粛清。
(ちなみに本書では「野蛮なゾーン」と訳されているけど、野蛮というよりトランプの「ワイルドカード」のような状態を含意してると思うので「ワイルドゾーン」のほうが適切な訳(訳?)な気がする。無法地帯・アウトローでイメージされる社会の余所者でなく、むしろ権力が率先して行使する無法なのが特徴)
それぞれの社会が人々にどんな夢を見せようとしたか、で説き直す東西冷戦史・とくにソビエト史。美術史・映画史でもあり、重厚ながらミステリーのようにスリリングでもある(←
ほら、また言ってる)、読み応えある一冊でした。
西に負けたのでなく夢が疲弊し、欺瞞を耐えきれなくなって崩壊したソ連。だが、対するアメリカの、同じく欺瞞をはらんだ夢はどうか。『夢の世界…』原著が上梓された翌年、アメリカでは9.11テロが起こり、著者の意識はイスラム(に対してアメリカが押しつける「
負の夢」)に向かう。
3.『
テロルを考える』(同月連ツイの再録)
『テロルを考える イスラム主義と批判理論』(原著2003年→・村山敏勝訳・みすず書房2005年/外部)はイスラム主義=宗教という先入観をくつがえし、学問の世界ではフランクフルト学派やフーコーの批判的理論を導入・市井では女性の社会進出を正当化するなど、政治思想としての側面を掘り出す試みで、その他アート論やインタビューなど、わりと雑多めに収録したミニアルバム的な著作。
個人的な関心から興味ぶかかったのはアート論。
現代のアートは、どんなスキャンダラスな事でも出来るが「どうでもよいものにしかなれない」(
すごい切れ味ですね)・人や社会を動かすこと
だけは出来ない骨抜きの代物だと一刀両断したうえで、そんな骨抜きのアートやアート業界・アーティストなど
「なくてよい。しかし美的な経験−情動と感覚による認知−、文化の形式のみならず(中略)
社会の形式にたいする批判的判断を含む経験は、なしではいられない」はずだと挑発する。
60年代のアメリカで、アドルノやホルクハイマー、ベンヤミンやマルクスの本は絶版だったが、商業出版に拠らないコピーが回され圧倒的に読まれた。ジョーン・バエズやボブ・ディランの音楽でも、同じようなことが起きた。
「市場調査課が仕事をしなくても、理論には読者がいるしアートは受容される」。
単純な敵味方の二分法ではない、別の視点・マイナーな視点から歴史認識の巻き直しをはかること。既存の理論を正典として教えるのでなく、その理論を実際に用いること。語り・考えることができる特権に伴う責務を果たすこと。読む人を選びそうな本だけど、自分には有用で有益な一冊でした。
* * *
6年後の今になって自分の連ツイを読み返すと、忘れていたことも多い反面、この時期にバック=モースを通して得た概念が、その後の自分の読書に影響を与え「ほらコレ、知ってるでしょ?」と何度も再登場してきたことが分かる。
『ヘーゲルとハイチ』の「理念的にフランス革命の先を行っていたハイチ」というテーマはハイチ史の古典
C・L・R・ジェームズ『
ブラック・ジャコバン トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』(原著1938年→青木芳夫監訳/大村書店1991年→絶版なのよね…)や、昨年の傑出した新書だった(個人の感想です)
浜忠雄『ハイチ革命の世界史 奴隷たちがきりひらいた近代』(岩波書店/外部リンクが開きます)(
昨年10月の日記参照)に直接つながっている。
(ちなみに『ヘーゲルとハイチ』の表紙で使われてる絵画については『ハイチ革命の世界史』でその位置づけが詳述されており、改めて解像度が上がる)
直接ではないけれど、ヨーロッパが自力で成し遂げたと自賛する近代化は、新大陸の奴隷たちの体験から得られた(金銀だけでなく)思想的な富をわがものとして簒奪しているという論点は、新大陸の原資よりさらに以前に資本主義はヨーロッパ内部での民からの収奪で離陸したという
フェデリーチェ『キャリバンと魔女』(
昨年10月の日記参照)に関連している。資本主義前夜のヨーロッパ史の見直しは、いま数年かけてチビチビ読んでいる
ブローデル『
地中海』の主題でもあり、この成果を報告できる日が来るといいですね…
ワイルドゾーン≒例外状態への関心、その契機がフランス革命だったという=近代「市民」革命の脱・神話化で、バック=モースは
ジョルジョ・アガンベンと思索の領域が重なっているようだ。今回の過去ツイ掘り返しで、現代アートへの批判的な視点も共通していることが伺えたのは愉しかった。アガンベンが「創作者じしんの幸福」に帰着させたアートの意味(
今年2月の日記参照)をバック=モースが
「社会の形式にたいする批判的判断」に還元しているのも、両者の資質が伺えて興味ぶかい。
そして20世紀を支配した「東西冷戦」「資本主義vs社会主義」という対立項が「
産業の拡大(だけ)
が人々を幸福にする」
という神話から生まれた同類の争いにすぎなかったという指摘。結局は新自由主義のディストピアへと世界を導いたこの神話じたいを解体する手順について、本サイトでは(最近読んだ)
ドゥボール『
スペクタクルの社会』や
ウォーラーステイン『
史的システムとしての資本主義』を取り上げることになるでしょう(予告)。
バック=モースにとって東も西も「夢」という名で人々に悪夢を押しつけた夢魔にすぎず、より直裁にアガンベンが
「死を招く機械」と呼んだ(
今年2月の日記参照)それらは東でも西でも拒絶する…9.11直後のアメリカでバック=モースが「
私は左翼だ」と自称する意味は他にない。と思う。
* * *
左翼(あるいは「リベラル」)の定義については
昨年4月の日記も参照。
僕らの時代・あるいはスーパー剣をやめる〜ペク・ソルフィ+ホン・スミン『魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?』(24.4.14)
【長めのマクラ】
あっ「harmoe」と思った。電車の中。大学生か、20代でオフィスカジュアルか、兎に角それくらいの男性。白いパーカの胸にワンポイント、なんとかコシノ・なんとかロンドンとかみたいに淡いブルーで入ったロゴは、女性アニメ声優ふたり組の音楽ユニット名なのだった:
・
ファンクラブグッズ≪はるもえroomパーカー≫受注販売決定!(harmoe official fan club/外部リンクが開きます)
←今は何でも検索・特定できる時代。たぶんコレだと思う(すでに販売は終了の模様)。たまさか自分はそっち方面にやたら記憶力がいいので名前を憶えていただけで、その活動もメンバーのプロフィールすら詳らかには知らなかったのだけど、それはまあ今回の主題ではないです。
三ヶ月前に理髪店(美容室ではない)でしてもらったスポーツ刈りをそのまま伸ばしっぱ・ショボくれた中高年男性の自分より、ずっとシュッとしてオシャレで身だしなみにも気を使ってる若者の上衣が、言われないと分からないけどオタクのグッズ。私オタクです!二次元キャラ大好き!ばーん!みたいに派手派手しくは
ない・街なかに融けこんで何の違和感もないステルスな、けれどディープなオタクグッズに(すごい時代が来たのかもなあ)と感銘を受けたのも、実は初めてではない。
いや、そもそも「私オタクです!」という
自覚があるのかは兎も角(長めの余談参照)今はむしろ逆に(ステルスどころか)ばーんと派手派手しく推しキャラの缶バッヂやグッズ・小さなぬいぐるみなどを―まるで防御力の上がる護符みたいにびっしり装備した、あるいはワンポイントツーポイントであしらったカバンやトートバッグは外出して見かけないほうが珍しい。※横浜在住で東京に出入りしてる場合の話です。
街頭にはアニメやゲームの広告があふれ、そうでない商品もアニメっぽいキャラクターのイラストで飾られる。実写映画の俳優がアニメ映画に声優として起用され、当代の人気ロックバンドが主題歌を担当する。あるいは逆に、アニメ畑(?)から出たアニソンが世界まで席捲し、ミュージシャンがホワイトハウスの晩餐会に呼ばれる。
昔は(デヴィッド・ボウイやピンクフロイドを聴いてた←それはそれでレトロ趣味だったんだけど)自分も長じて中年老年になったら年相応にブルースやクラシック・演歌など聴くようになるのだろうか、などと思ったものだ。だが現実には今だにデヴィッド・ボウイやピンクフロイドを聴いてて―逆にエイフェックス・ツインやデフトーンズが加わったりして―最近は宇宙ネコ子をよく聴いてます―単にロックが中高年の趣味にスライドしただけだった。いや、それはちょっと別の話。今時のコンテンツについていけずに・あるいは昔話のほうが楽しくて『スチュワーデス物語』とか大昔のテレビドラマの思い出に興じてる人たちもいる。
でも、んー、別の話でもないか。昔だったら時代小説を読んでたような年齢層で(時代小説も変わらず人気のようだけど)代わりに「ファンタジック」と間違った和製英語で敢えて呼びたくなるような異世界を舞台にした小説に向かう読者も少なくないらしい。成人の子どもがいてもおかしくない年齢層の社会人がスマートフォンでのぞきこむ画面ではアニメ絵柄の美少女や美青年がゲームをナビゲートしている。そもそも「大のオトナが携帯ゲームに夢中になっている」。単に吾々は「それ」がなかった頃は麻雀やトランプに興じて、詰め将棋や詰め碁の小さな本を電車なんかにも持ち込んだりしてたんだよ、というだけの話かも知れないが。
そして自分はそれらを批判したり否定したりできる立場ではないし、逆に素晴らしい時代になったと思うこともあるのだが。
要するに、よしあしの問題は
一度措くとして、オタク趣味は事実上かなりの勝利を納めたのだ。それが吾々の趣味であるとしたら、
吾々は勝ったのだ。当事者によるオタク考察の古典であろう
中島梓『コミュニケーション不全症候群』(1991年→1995年ちくま文庫/外部リンク)が「
社会の成員すべてが大人になることをやめてしまったら社会はどうなるのか」と慄きをもって問うたように。いみじくも先週の日記で取り上げたスマッシング・パンプキンズの歌のように吾々がみんな「
永遠に若く美しく凍りつく夜」を選んだらどうなるのか、街じゅうがアニメ絵のコンテンツにあふれた現在、吾々はその答え合わせをしているも同然だ。それは認めなければいけない。
「吾々は虐げられてきた」そういう側面もあるのかも知れないが「とはいえ今の吾々は勝ったも同然だ」という事実を否認するわけにもいかない。何しろ国政選挙ですらオタク趣味やオタク活動の擁護を全面に出した候補者が漫画家や漫画ファンの圧倒的な支援を受けトップ当選する時代だ。中島梓の別名義である栗本薫のデビュー小説の名を借りて言えば、今は「
僕らの時代」なのだ。
何度も何度も言うけれど、本当に良い時代になった。たぶん吾々は老いても死ぬまで次々供給される萌えコンテンツに事欠かないし、とくに若い人たちはその趣味を隠す必要もなく、かつ「隠さないでいい」年齢層は順次ひろがっていくだろう。ついでに言えばネットワークの普及で、たぶん相当にニッチな趣味でも同好の士は見つかるようになった。少なくとも孤独でないということが、どれだけ貴重か(これほどワガママに孤立を満喫してる僕が言うくらいだ)。
オタク的なものに救われたことのある人間なら、今がどれだけ恵まれた時代か分かるはずだ。
そのうえで「僕ら」は「本当に勝った」のか・吾々が望んでいたのは本当にこういうことだったのかと問う必要がある。ない人にはないのかも知れないが。
* * *
というわけで【ようやく本題に入る】
ペク・ソルフィ+ホン・スミン『魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?』(渡辺麻土香訳/晶文社2023年/外部リンクが開きます)の書影を見たときは驚いた。数年前に台湾で表紙買いした繁体字の青春小説『
玻璃弾珠都是猫的眼晴。』(張嘉真/三采文化2019年)が読みそびれているうちに邦訳が出たかと一瞬だけ思ったのだ。…単に同じイラストレーターの作品を装画に使ってると気づくのに時間はかからなかった。
低級失誤 Saitemissという台湾のアーティスト、画集が一時期日本でも手に入ったけどギリ品切れで逃がしたのが今でも口惜しい…
『夢の中でなら君にキスできる』(タコシェ/外部リンクが開きます)
アニメ・ゲーム・文学に児童文学・そしてアイドル…商業主義がコンテンツ化した「少女」が、消費者である現実の少女たちに与えた影響を考察する、韓国の元・少女(つまり当事者)二人による評論。
中身を読んで、また驚かされたのは題材となるコンテンツの多く(タイトルにあがった魔法少女アニメでいえば『魔法使いサリー』から『アッコちゃん』『メグ』『クリーミィマミ』『セーラームーン』『どれみ』『プリキュア』と、ことごとく)が日本製であったこと。他に取り上げられたディズニーアニメやK-POPは逆に日本の若年層も海外コンテンツとして受け容れているもので、韓国の本と日本の訳書の橋渡しになってる装画の台湾も含め(Saitemissが「最低ミス」という日本語であることも認識しておきたい)、少なくともアジアの「吾々」は大体おなじようなコンテンツの波に浸ってることが分かる。オタク趣味による均質化。良く言えばグローバル。
悪く言えば…大きな市場として「発見」された少女たちに向け制作された大量のコンテンツが、一方ではたしかに少女たちをエンパワメントしながら、そのエンパワメントには限界があり抑圧や搾取も隠されていた。少女コンテンツの光と影、といった処だろうか。
多岐にわたる本書の内容すべてを網羅はできない。書名のもとになっている魔法少女の章を見てみよう。先に挙げた魔法使いサリーから
「女の子だって暴れたい」をキャッチフレーズにしたプリキュアまで、日本のアニメが生んだ魔法少女たちは国境を越えて観客層の少女たちに夢を与えてきた。だが著者たちは、それが同時に搾取や抑圧の周到な道具だったことも見逃さない。
「少女」でなくなったら魔法少女を「卒業」させられる主人公たちの力は、たとえば『サリー』のようにご町内の小さなトラブルの解決にしか行使できず、慎ましくあることを強要されてきた。(※本書から少し離れて注釈すると小さな望みが自動的に批判に値するわけではない・たとえば『おジャ魔女どれみ』の主人公の一人が魔法使いになって叶えたい願いが「離婚した両親を復縁させたい」だったように、ローカルな願いが当事者にとっては世界の覇権より切実なこともあるとしてもだ)
後々は良妻賢母が期待されるような古めかしい魔法少女像が人気を失ない低迷する中、ファッションや遊びをエンジョイする少女たちがミニスカートのセーラー服に変身して、世界征服を企む敵と対決する『美少女戦士セーラームーン』に現実の少女たちは喝采する。だがそれは少女たちをエンパワメントすると同時に
「ミニスカートにハイヒール姿の性役割を植えつける」ものでもあった。「女の子は何にだってなれる―ただし若くて美しい"少女"でいる間は」という呪いは過酷なダイエットを強いられるアイドルにも課せられているが、その考察は本書に譲る。
問題は「あなたたちは自由だ」「思い通りの自分になれる」というポジティブな励ましが「そのためには、もっと商品を買いなさい」「
よき消費者でありなさい」という強迫と表裏一体なことだ。感動的なストーリーで催涙弾と呼ばれるくらい視聴者の涙を絞ってきた『どれみ』シリーズの制作陣が「作品を作っている間はタイアップ玩具の売り上げが最優先で、物語がどう受け止められているかなど考える余裕もなかった」と回想しているのはソコソコ衝撃的だ。
「『東映の魔法少女シリーズは、2020年(中略)
に至るまで(つまり『魔法使いサリー』から50年間)
テレビシリーズのディレクターに女性を起用していませんでした」という指摘もまた。
今の世の中、ディズニープリンセスやジブリアニメの「ヒロイン」たちが現実の女性をいかにエンパワメントしているかと説く言説には事欠かないだろう。「ワンピースに学ぶリーダーシップ」「鬼滅の刃の組織論」みたいなビジネスおためごかし(語弊)なら尚更ありそうだ。かく言う自分も『魔女の宅急便』は地方から東京に出てきて働く若い女性アニメーターの物語だと宮崎駿監督じしんが述べていたのを敷衍して、『
もののけ姫』が劇場公開された頃、エボシ御前は「
ここをいいアニメスタジオにしよう」と言ってるのだなと考察したことがある。だが現実はどうだったか。
「『セーラームーン』の成功に寄与した女性アニメーターたちは皆、どこに消えてしまったのでしょうか?」と韓国の二人の著者は問いかける。「
その当時、少女たちが憧れた「働いて消費するキャリアウーマン」たちは、もしかすると世界最大の男女賃金格差の溝に落ちてしまったのかもしれません」
エボシ御前が夢みた「いい村」に最も近かったと思われるスタジオのひとつ・京都アニメーションはガソリンによる放火で多数の命が奪われる大惨事に見舞われた。アニメファンは男性たちも「俺たちの京アニが」と憤ってみせたが、事件前のネットには雇用条件や福利が平等で女性スタッフが多く活躍する同所を「逆に男性差別」と揶揄する声もあったはずだ。あれが事実上のフェミサイドであったことは微妙に言及が避けられているのではないか。
* * *
勇気や励ましと表裏一体で少女たちに届けられる「よりよい消費者であれ」というメッセージには、そして「よりよい
消費対象であれ」というメッセージも否応なく含まれている(と、考えざるを得ない)。
性的であることは一辺倒に非難されるべきことではない。思春期の人間が性にめざめ、自分の中にある性を力能(パワー)として実感するとき、それが性的な装いや振る舞いに現れるのは可憐なことであり、それを望む誰にでも認められるべき幸福でもある。
だがそこに搾取や力関係が絡むのは別問題だ。
アニメの魔法少女やステージのアイドルは、魅力という力能を発揮して少女たちを勇気づけると同時に、性的なコンテンツとして消費されもする。魔法少女にしてもアイドルにしても「成年男性」「おじさん」といった本来なら場違いだったはずの消費者層を新たに「発見」してしまったことは大きな弊害を生んだ可能性が高いと(他ならぬ「おじさん」の一員である自分も)(だからこそ)認めざるを得ない。
本書ではさすがにそこまで言及されてはいないが、魔法少女が世界を救うという名目で実は搾取される存在だという現実を容赦なく暴いた作品に(東映の王道魔法少女とは別系統にあたる)アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』があった。だが欺瞞を暴き、魔法少女すべての救済を願った『まどか』の批評性は、登場する(年齢的には中学生にあたる)少女たちの性的消費物としてのコンテンツ化を排除するものでは全くなかった。
励ましと搾取が同居しうるように、鋭い批判と「そんなものさ、だから勝つ側になって興じろ」というニヒリズムも両立しうる。
『セーラームーン』にしたって、コミックマーケットなどで販売される二次創作物でどれほど性的コンテンツ化されたか分かったものではない。そのサイクルの中には販売者・消費者として女性のファンも少なからず含まれるはずだが、それがどこまで「性の解放・自由な性の謳歌」であり、どこから「非対称な性の搾取や・搾取構造の再生産」か判別するのは難しい←不可能だと構造の温存を擁護しているのはではなく「難しい」という話。
それを解きほぐすのは非オタクの全面的な否定や見下しでも、反発するオタクの全肯定・アンチ否定でもなく、どちらかというとオタク的気質もコンテンツに対する愛情や敬意もある・けれど問題意識もある当事者の、多方面から何度もアプローチする根気ある考察になるだろう。本書はその果敢な一歩と言えるはずだ。(この項いったん終わり)
* * *
【長めの余談】
一度ハッキリ断言しといたほうが良いと思うので断言するけど(
ということは前に何度も言ってる可能性が高いけど←こういう方面の記憶力は全く乏しい)
作り手でも受け手でも表現・創作界隈は何しろ評価や売上=結果が全てかつ結果は自分の実力・実力は自分の努力の成果となりがちなので、基本的に避けがたく資本主義や新自由主義・差別や弱者蔑視と親和性が高い。社会悪にきちんと向き合う作家は、知らない子どもが溺れてるのを助けようとして自らも落命してしまう聖人くらい稀でイレギュラーな存在だと知っておいたほうがいい。
『魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?』の著者たちは、
ホイジンガの『
ホモ・ルーデンス』を引用し「グーチョキパーは互いに限界を定める(という"約束を守る")から遊びとして成立する、どの手にも勝てる"剣"や"ライター"を持ち込んだら遊び自体こわれてしまうと子どもでも理解する」と指摘している。
だから子どもたちには遊びの自由が必要なのだという著者たちの意図とは少し逸れるが、子どもでも理解している遊びのルールが分からず「こっちはスーパー剣だ」「だったらこっちはスーパーウルトラ何とか剣だ」と自分が勝つまでチップを釣り上げていくのが資本主義というゲームであり、さらに大人の中でも最も高い地位にある連中が「お前の国の国民を一日に千人殺してやる」「だったらそっちの国民を一日に千五百人殺してやる」と自分のものでもない人命を賭けるのが近代戦争という愚行だ。
報復合戦をやめろ、少しも面白くない。
バイデンやネタニエフは自分ひとりでリングにでも立ってデスマッチで決着つければいい気もするが、
そうするとプーチンがすこぶる有利になってしまい不本意なので話をオタクに戻すと、そうしたゴリ押し頼みで自分の支出や思い入れをエスカレートさせていくのはオタクというより「資本主義・商業主義化したオタク」の不幸で、「私はチョキだからグーには負けるなあ」あるいは「ここにラクダには勝てるがヒトデには負けるモモンガや、パーと組み合わせるとチョキと組んだ戦車に勝てるコインランドリーを加えましょう」と勝ちでも負けでもない「あいこ」の手を増やしていく「手」もあるのになと思ったりする。
スーパーウルトラ何とか剣で一人勝ちしたいという(子どもでも無理だと分かる)欲を捨てようとしない人は、オタク的なものから得られる精神的・現実的な利得は独占して勝ち誇りたいが
「大いなる力には大いなる責任が伴う」と言われると急に「オタクは無力で差別されるマイノリティなんだ」と言い出し、なんなら「弱者のオレに償え」と要求するムーブすらかましかねない。
あるいはオタク的な楽しみを心ゆくまで享受しながら「やっぱりオタクってキモいよね」という蔑視も内面化しているのかも知れない。ふたつ前の職場で出会った男性はスーツにネクタイだがアニメ絵のゲームキャラの缶バッヂやクリアファイルをデスクに飾り立て、この主題歌はすごいよ年末の紅白まちがいないと吹聴し(実現はしなかった気がしますが)つまりオタク趣味が社会的にも認められ栄誉を得ることを良しとし、ゴジラやエヴァンゲリオンの新作映画は公開初日に劇場に行く猛者だったが(念のために言うと仕事はきちんとされるし悪い人ではなかった。コロナ禍に飛んだブルーインパルスには大喜びしてたけど)
「オレはオタクじゃないよ」とも言い放ち、エヴァにも○まぴょい伝説にも関心のない僕をあぜんとさせたものだった。
「だってオレはコミケとやらには行ったことないもん」。
スマホを操る指の爪までオタク趣味に浸っていながら、こんなふうに自己定義してる人も、また少なくないのかも知れない。「私たち皆が大人になることを拒んだらどうなるのか」という中島梓の問いを(長い文章だったので)もういちど蒸し返しておいてもいいだろう。
* * *
(同日追記1)今回は(も)余裕がなくて文章だけで申し訳ないけど出来れば挿し絵にしたかった件として『パラサイト』の
ポン・ジュノ監督(韓)のデビュー作『
吠える犬は噛まない』は中年男性の主人公がカラオケで唄うのが『フランダースの犬』主題歌の韓国語版でびっくりして確認したら映画の原題じたい『フランダースの犬』で二度びっくりということがあった。コンテンツは軽々と国境を越える。
(2)本書が考察の対象としているのは児童も含んだ少女全般だけど、60年代フランスで社会学者たちが(ティーンエイジャーの)少女という概念を発見して興奮を隠しきれない様子を克明に記した『オルレアンのうわさ』については
20年3月の日記参照。
(3)カバンに推しキャラの缶バッヂやぬいぐるみを装備している少女たちの、どこからがオタクかという問題もある。ディズニーやサンリオ・ジブリのグッズを装備しているのはオタクの証明にはなるまい。『ちいかわ』もそうだろう。『呪術廻戦』ならどうか。『free!』はどうか。「コンテンツ資本主義」とか、もっと大柄な尺度が必要なのかも知れない。ハチワレ(ちいかわ)のぬいぐるみは僕もちょっとほしい。
アメリカの夢の機械〜ジョナサン・デミ監督『ストップ・メイキング・センス』(24.4.7)
まだ設営のスタッフが行き交う、何もない舞台の上で男が一人、持ってきたラジカセでリズムを流しギターを弾いて歌い出す。
二曲目でベースが加わり、演奏の間に背後でドラムセットが組み立てられる。三曲目はドラマーを加えた三人で、そしてコーラス隊が、二人目・三人目のギタリストが、パーカッションが、なんか不思議な機材から不思議な音をモニョニョ〜ンと出すバーニー・ウォレルが加わり、
おじいちゃんでも孫の園児でも「なるほど、それぞれこんな音を出してるのか」と分かるロックの教科書。いや、ロックの先にある何か。
後に『羊たちの沈黙』を撮ることになる
ジョナサン・デミ監督の、もうひとつの傑作。
トーキング・ヘッズの絶頂期をとらえた(
というか、この映画でグループに絶頂期をもたらした)『
ストップ・メイキング・センス』画像リストア・音響リマスター版での再上映。実はDVDを持ってて少なくとも2ケタ回は観てるけど、映画館の大きなスクリーンで観られて好かった。
配給のA24がつくった予告篇を飾る
「the greatest concert film of all time」(コンサート映画の史上最高作)、ピーター・バラカンさんも同じお墨付きをDVD版に寄せていた。
まあ宣伝文句ではある。
正直、好きなミュージシャンのライブ映像がファンにとっては至高だろう。そこまでファンではなかったのがライブ映像を通しで観て熱烈にハマってしまうケースも少なくない。
それでもなお『ストップ・メイキング・センス』を突出して稀有な「映画」にしている理由は、単に「すぐれた音楽映画」という枠を越えたところにあった。
* * *
★予備知識になる話と余談をたたみました。(クリックで開閉します)。
(余談1)
トーキング・ヘッズ、結成時のメンバーはデヴィッド・バーン(vo,g)、ジェリー・ハリソン(g,key)、ティナ・ウェイマス(b)、クリス・フランツ(dm)の四人。ニューヨーク・パンクの旗手として70年代なかばに頭角を現す。
これは完全な余談だけどデヴィッド・ボウイ70年代後半の名盤『ヒーローズ』の2曲目「ライオンのジョー」の芝居がかった歌唱が「ちょっとデヴィッド・バーンしてみました」なのは間違いないと思う。ベルリンで『ヒーローズ』をプロデュースしたブライアン・イーノは翌年ヘッズをプロデュース、さらに翌々年の当人の楽曲は「King's Lead Hat」は曲名からしてTaking Headsのアナグラムで(やっぱり歌いっぷりもバーンぽい)、アメリカの新進ミュージシャンへの並々ならぬ関心が伺える。
・
David Bowie - Joe the lion(公式/YouTube/外部リンクが開きます)
・
Brian Eno - King's Lead Hat(同上)
イーノを迎えたトーキング・ヘッズはアフリカ音楽を大胆に取り入れたアルバム『リメイン・イン・ライト』で評価を決定づける。音楽性の変革を外部ミュージシャンの招聘で成し遂げたヘッズは次第に大所帯になっていく…
語弊をおそれずに言えば『ストップ・メイキング・センス』を突出した「映画」にしたのは、招聘された黒人ミュージシャンたちがもたらした精神的な要素だ。ファンクやソウル・ゴスペルといった音楽性だけではない。音楽性の源泉にある(音楽ジャンルの「ソウル」ではなく文字どおりの)魂・感情や精神・それを入れる器としての肉体。
感情や肉体・精神に対置されるのは、ふつう理性や頭脳・そして物質だ。20世紀の覇権国家アメリカを支える合理主義と、世界中の他の国々が憧れると同時にうんざりさせられる物質文明=商品文化=消費社会。自国の消費社会に対するシニカルな批判は、まさに「しゃべる頭」と自ら名乗ったニューヨークの知的な白人バンドの得意とするところだ(映画では演奏されない彼らの代表曲のひとつは「
LOVE FOR SALE」だ)。
だが知的な皮肉と、物質文明の上に開き直った享楽的なリズムだけでは、凡百の「少しエキセントリックなバンド」に終わっただろう彼らの前に、音楽を通して、アメリカの半身である虐げられた人々の魂の故郷=南部の宗教や文化・風土への地下水路が開かれる。「ワンス・イン・ア・ライフタイム」の、神がかりになった伝道師のような仕草の数々とゴスペルのようなオルガン音。恋の苦悶を歌う詞がバプテスト派の浸礼を思わせる「私を水で浄めてくれ」の連呼に転じる
アル・グリーン「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」のカヴァー。
・
Al Green - Take Me to the River(公式/YouTube/外部リンクが開きます)
(余談2)Take me to the riverのフレーズはルー・リードも取り入れているけど、これは本当に余談ですね。
・
Lou Reed - Teach the Gifted Children(同上)
十分すぎる根回しをした(
たたんだけど)うえで、結論を急ごう。
うんざりするほどの物質文明・消費社会・経済至上主義、神なき近代合理主義のうえに築かれた物量のアメリカ・50個の星が国旗にかがやく豊かで貧しいアメリカは、同時に(たぶん物欲と同じくらい強烈に)物質では満たせない魂の救いを求めている。
『
IT』に代表される
スティーヴン・キングのモダンホラー小説が。
そのエッセンスを
「俺たちは永遠に凍る 永遠に美しく 永遠に自分たちの内にこもったまま―俺たちを若いまま保ってくれる夜が来た」と一曲に凝縮した
スマッシング・パンプキンズのゴス・ロックが。
・
The Smashing Pumpkins - Thru The Eyes Of Ruby(外部)
あるいはドナルド・トランプを救世主としてあがめる陰謀論者たちが、ホラーとしてしか体現できなかった「ひたすら物質に夢と救いを求めるアメリカの、もうひとつの(精神的な救いという)夢」を『ストップ・メイキング・センス』はポジティブに描きえた、稀有な成功例なのだ。
★(余談3/たたみました)。(クリックで開閉します)。
「物質がすべての世界で、突破口として希求されるスピリチュアル、がホラーにしかならない件」は当然、拝金主義と揶揄される日本も他人事ではない。この日記を書いてる最中に外で神社の鳥居に出入りで深々と頭を下げている人を見たけれど、あれが前世紀にはなかった「新しく作られた伝統」であることを知っていると、見てるほうには十分ホラーですからね…
こないだアガンベンの『創造とアナーキー』を読み返したとき(使えるものは何でも使う)「いかなる歴史的意味も欠いているにもかかわらず、茶道を嗜み続けている日本人(のスノビズム)」という文言に何ぞ?と思ったけど、こういうことかと通りかかった神社の前で痛感した次第。
たぶんそれは同作がステージで現出させた夢、アメリカが圧倒的な物欲と表裏一体で隠し持っていたスピリチュアルな夢が、カルトやオカルトの方向に向かわず、ステージ上での(肉体をもった)演者たちの
「人種を超えた融合」という現世での社会的な夢に結実したためでもあるだろう。ステージの下でも、観客席で黒人も白人も入り交じって踊り、歓声をあげる姿が映し出される。
30年後、ソロになった白人デヴィッド・バーンが今度は黒人のスパイク・リー監督を迎えて制作した新たなステージ映画『
アメリカン・ユートピア』が、最後の最後に言葉でのメッセージとして表明した社会への夢(
ネタバレなので伏せます)を
・
David Byrne's American Utopia | clip -Burning Down The House(外部)
『ストップ・メイキング・センス』は音と映像でおのずから示していた。トーキング・ヘッズ自身も以後の活動で、この奇蹟的な高揚感をマークすることは、ついになかった(気がする)。本作が「最高のコンサート映画」な所以である。
* * *
(余談4)
ジョナサン・デミ監督の遺作となった『
幸せをつかむ歌』には、やはり時をおかず亡くなったバーニー・ウォーレルがミュージシャン役として出演・旧交を暖めている由。未見なのでコレは宿題。
・
『幸せをつかむ歌』予告(外部)
『羊たちの沈黙』で(誘拐した女性を地下の穴に閉じこめたまま)バッファロー・ビルが化粧して踊るシーンで流れるニューウェイブ風の曲、流し聴きで「I'm crying, crying…」と聞き違え、なにか適当なラブソングのたぐいかなと思っていた楽曲。実はcryじゃなくてfly、
「I'm flying flying flying over you」私は(私の可能性を否定する)あなたを越えて飛んでいくよ…という内容だった。デミ監督の音楽への造詣の深さを再確認できるエピソードも含め、以下のブログを参照:
・
GOODBYE HORSES - Q LAZZARUS/Q・ラザルス 和訳(radictionary - 音楽好きのための外国語辞書/2023.6.6/外部リンクが開きます)
性格もとことん悪い猟奇殺人者バッファロー・ビルの造形は、トランスパーソンやLGBTQ全般への差別や偏見を助長すると公開当時から批判されたし、その批判も当然と思う一方で(ちなみに演じた俳優さんも事実上キャリアを絶たれてしまったという…)選んだ楽曲は「蝶のように変身する」というレクター博士の洞察の先=蝶として飛んでいくという願望まで象徴していて、いや人でなしの悪人なのだが(そしてそれが差別的なイメージを広めたのは本当に遺憾なのだが)極悪人なりのキャラの作り込みが伺えて、表現のチカラと限界について少し考えてしまう。
2024年の今になって見返すと『ストップ・メイキング・センス』で描かれた融和の夢に、アジアンやヒスパニック・ましてムスリムの姿がないことにも否応なく気づかされる。その限界を、はしなくも露呈していることも含めて、やはり一度は観ておくに足る傑作だと思う。横浜の
シネマ・ジャックアンドベティで4/12まで(外部リンクが開きます)
小ネタ拾遺・24年3月(24.04.01)
(24.3.2)3月2日はルー・リードの誕生日。今年はスゴい「歌ってみた」が来た:
Keith RichardsI'm Waiting For The Man(公式/Youtube/外部リンクが開きます)
「俺にとってルーはピカイチだったね。マジもんだよ!アメリカの、いや全ての音楽にとって重要だ。奴と奴の犬がいなくて淋しいよ」
犬?それってまさかdogと同じD始まりの…(それ以上いけない)
(24.3.6)いろいろ紙の本を読むのと並行して、スキマ時間にスマホで電書版をちまちま進めてた
ジュリア・セラーノ『ウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』(サウザンブックス/外部リンクが開きます)ようやく読了。社会的な不平等(貧困や被暴力)への怒りに満ちた
ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』(
23年2月の日記参照。あちらも重要)とはまた違った内省的(?)アプローチで、シスジェンダーでも男性でも自分自身の・あるいは自分以外の属性の人も含め、人にとってジェンダーやセクシュアリティって何だろう・どうすれば自身の性で自身をエンパワーメントできるのだろうと改めて自問するヒントをくれる好い本でした。すごく局所的なことを言うと作家および作家志望・とくに百合やらBLやらあるいは異性愛でも知的に感情的により満足した作品を手がけたいと思ってる人には、すぐ応用できる即効性ではなくジワジワ発想の体幹に効く柔軟さを期待できる本でもあると思います。次に読む本に迷ってるひとは是非。
(24.3.8)さいきん初めて知ったんだけど
ヨ・ラ・テンゴがカヴァーした
・
Friday I'm in Love(公式/Youtube/外部)のMV。
Wednesday Thursday "HEART ATTACK"って、そういう意味じゃないから!!(heart attackは心臓発作。為念。あとなにげに製作費すごそうだよね…)
ダイナソーJrがカヴァーした「
Just Like Heaven」でも思ったけど、アメリカのインディーズ・オルタナ勢が(イギリスの)ザ・キュアーをリスペクトしてるのが伝わってきて心温まる一方で、
あんたらザ・キュアーを何だと思ってるんだという気持ちも無くはない。
・
Dinosaur Jr. - Just Like Heaven (Live on KEXP)(YouTube/KEXP公式/外部)
(まあ本家のザ・キュアーもたいがいアレだよねというのは措く…ともあれ皆様LovelyなFridayを)
(24.03.13)久しぶりに
アガンベン『創造とアナーキー』(
先月の日記参照)を読み直してたら
「誤った趣味が露わにしているのは、〜できる能力の水準における欠如というよりも、〜しないでいられる能力の水準における欠如である」
「センスのないひとは、何かするのを控えておくことができない。センスの欠如とは、つねに〜しないではいられないことなのである」という箴言に出くわし、むせび泣いている。畜生ためになるぜ(最近かかりきりの原稿に「もうちょっとこのへん詳しく」と8ページ加筆を決めたばかり…)
(24.3.17)中国茶などを少しずつ飲む用の茶器、丁寧でない生活がたたって落としたり何だりで欠けが目立ってきたので替えを探していたのですが…(いやメイドインチャイナで500円くらいの廉価品なんですけど)なぜか出町で落手しました。京都の。前後の事情は来週というか
18きっぷで毎日7時間くらい電車に乗って、三日で50kmくらい歩いて(
娯楽や息抜きが強迫観念になったら現世が地獄って先週の日記で書いてたよね?)流石にへとへと。
(24.3.19)今の上皇つまり先代の天皇誕生日が代替わりで直ぐに休みでなくなったのに昭和天皇の誕生日は祝日として残り続けてるの、制度的な理由(エクスキューズ)もあるんだろうけど、端的な話この国のマジョリティが見たい夢の正体が隠れてる(隠しきれてない)のではと思いつくなど。ルル説明するのも面倒なので各自で勘ぐってください。
(24.3.20)西洋音楽史の学年末テストで単位を落としそうな生徒のためのサービス問題「この中で自身のバンドに専念するため直ぐ脱退した助っ人メンバーは誰でしょう」
(
ヒント・髪)まで書き添えずにいられない、先生は心配性。
ちなみに正解は↓このひと=プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーさんなんだけど、あーこれは(髪質だけじゃなく)音楽性も合わんわというか、自分のバンドだと別人のように楽しそうですね…
Primal Scream - Jailbird (Official Video)(YouTube外部リンクが開きます)
(24.3.22)また地中海を中断、縁あって
ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』(ちくま文庫/とりあえずI巻だけ)に寄り道中なのだけど
バビロニア語のもっとも美しい祈りのひとつは、ありとあらゆる神々に、祈願者がその名を知らないことを謙虚に認める神々にさえ向けられている。「(中略)
おお、存じあげぬ神様、私の罪は甚大です!……おお、存じあげぬ女神様、私の罪は甚大です!(略)
見捨てないでください!」(強調は舞村。以下も)エリアーデ大先生、よく笑わずに書けるな…いや笑ってらしたかも知れんが…
※ちょっと言葉足らずだったので補うと(神々は人の願いをかなえてなんぼ的な取引意識とは対極な)ヨブ記からダンテ・20世紀のバルトまで一貫してる「神の偉大に拮抗しようとする(した)だけでおこがましい」という圧倒的な屈従意識や生きてるだけで罪深い的な罪悪感の源流かもなと思ったのです。
ちなみに地中海で「そんなん笑うが」と思ったのは
「地中海は、イスラム教徒の土地でさえも、ぶどうの木とワインの国である。イスラムの詩人以上にワインをほめたたえた人がいるだろうか」
そしていわゆる地中海性気候について書いた
初期のオリエント的な画家たちはぴかぴか光る色調で我々をいつもだましてきた。一八六九年十月、フロマンタンは、メッシーナから船で遠ざかりながら、まさに次のように記している。「雲におおわれた空、寒い風、にわか雨、天幕に雨滴が落ちる。物悲しく、まるでバルト海だ」
あはははは。読書は(も)楽しいぞ。
* * *
「俺は君たちが想像を絶するものを色々見てきた オリオンのそばで焔に包まれていた宇宙船 タンホイザー・ゲートの闇の中で輝いていたオーロラ あの目眩く瞬間もいずれは消える 時が来れば涙のように 雨のように」(日曜洋画劇場・吹替版に基づく)
ロイ・バッティ(-2016)
ルトガー・ハウアー(-2019)
寺田農(-2024) さよなら、また別の星で逢いましょう。(24.3.23)
※追記:宮崎駿監督はブレードランナーの吹替をテレビで観て、寺田氏にムスカをオファーしたそうですよ…
(24.3.24/すぐ消す/月末に拾う)YouTubeで目当ての動画の前後に入る広告、まあそれは仕方ないのだけど、世界的大企業コカコーラのWeb限定らしきCM
・
オツカレタイムに贅沢ミルクコーヒー| ジョージア(コカコーラ公式/外部リンクが開きます)
「一度見たら忘れられない独特な動き」「癖になる歌とダンス」などと業界ニュースサイトに書かせているけど、端的に十年くらい前の中小企業・
赤城乳業 BLACK TV-CM(YouTube/外部リンク)のアイデア再利用(無断)(a.k.aパ○リ)だよね?とゲンナリした直後、
入ってきた二本目の広告が
「富士○のパソコンは神!ジャパンクオリティさすが!と外国人親子に言わせるCM」(YouTube/外部)。逆の意味でジャパンクオリティさすが…と(とうに知ってたけど)落胆の連打でした。
(24.3.25追記)前者についてはエリアーデ『世界宗教史1』の昨日ちょうど読んでた箇所にも「古代エジプトのラムセス三世は墓の壁に己の事跡として先代ラムセス二世が征服した都市名を刻み込んだ」とあったので人類の臆面のなさは四千年前から変わらんようですが…
(24.3.26)CMのパクリは容認しがたいのに音楽だと「そう来たか!」「よくぞソコから持ってきた!」と喜んじゃう違い、説明が難しいのですが(芸をパクるのと、パクリが芸になってるの違い…んー、やっぱ分かりにくいか)
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Lady Gaga - Bad Romance(公式/Youtube/外部リンク)
おっ○い花火に気を取られて(←語弊)15年ほど気づかなかったけど、絶対に何処かで聴いたことあると思ったら、あって当然だよコレでした→
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Electric Light Orchestra - Don't Bring Me Down(YouTube/公式/外部リンク)
←そう言われて観ると冒頭のしょうもない2コマアニメ(ネオン)も、ガガ様の踊りと見比べてしまうな…(しまうな)ガガ様&バックダンサーズの踊りは4:15〜の足踏みダンスが白眉だと思います。
(24.3.27)
Bad RomanceのMV、いろんな解釈があるんだろうけど「私は芸を売るけれど
私そのものまで買えると思うなよ(火だるまにすんぞ)」と額面どおりに受け取ってしまったのは、立体オブジェみたくクルクル回され最高値で落札されるガガが、異形に過激に転生したかのように「
傷物の中古品として私をサザビーで買い叩いた好事家気取り、てめえのペ○スでも咥えてろ」と四つの瞳で歌い上げたメラニー・マルティネスのせいかも知れない。昨年聴いてグッときた歌のひとつ。
・
【和訳】NYMPHOLOGY - Melanie Martinez(ロンリーハーツクラブ/外部リンク)
Bad Romanceの映像(歌詞はそんなに大したことない)とNYMPHOLOGYの歌詞の間に、レプリカントやヴァーチャル彼女が都合よい傷物として買い叩かれる『ブレードランナー2049』を挟んで、並べてみたくなる。どちらかと言うまでもなくガガ様に黒焦げにされる立場の者ですが、一応そういう立場だよな自分という自覚はあるのです。ヴィルヌーヴ(ブレラン2049)の監督には自覚、あるのかしら…
本サイトで何度も何度も再確認した「私たちには私的な苦痛を(鬱怒でなく)公的なイシューに変える言葉が足りてない」という『
目が眩んだ者たちの国家』(
18年12月の日記参照)の指摘は政治の言葉について語ったものだけど―詩歌にも同じ「公共の言葉を与える」役割は期待されているのではないか。僕たちの、あなたの周りにある歌は今、その火急かも知れない要請に応えているだろうか。なんてことを思った三月でした。また来月。
抹茶パフェが消えた日〜春の18きっぷ旅行2024(後)(24.3.31)
ここ数年、奥歯を図案化または立体オブジェ化した歯科の看板ばかり見てきたせいで(奥歯じゃなくて)「歯」という字の図案化に「これは新しい」と思ってしまい、吾ながら少し冷静を失なってるなと。下に「大阪下町焼」とあるけど名古屋です。
ちなみに↓コレは地元ヨコハマで採取。よく見ると「歯」という字の頭に奥歯が。
* * *
今回の18きっぷ旅行では名古屋から快速で30分の岐阜(岐阜市。県庁所在地)に宿を取ったのですが、宿の共同のシャワー室ではなく歩いて3分の銭湯へ。
湯上がりにプハーと地元の瓶牛乳を飲んだら、銘柄が
「たなはし牛乳」(公式/外部リンクが開きます)。どう見ても岐阜・駅前に黄金色の信長像がある「岐穂市」を舞台にした
宮原るりさんのギャグ四コマ『
みそララ!』『
恋愛ラボ』にメガネの棚橋兄妹という濃ゆいキャラが出てくるのだけど(
宮原キャラに濃ゆくない人が居たか?と言えば居なかった気もしますが)なるほど地元愛のこもったネーミングだったのかと知れたのも遠出して現地を訪ねる面白さ。
前回も拾った『
夢みる名古屋』(
21年2月の日記参照)で名古屋より好いと著者の絶賛が気になっていた岐阜。今回は宿泊地としてのみの滞在で満喫とは行かなかったけど、駅直結の呑み屋通りに面白さ・味わいやすさの片鱗をうかがえたかも。当方下戸なのですが、呑んべだったら・それも皆でワイワイ騒げばええやん(あ、自分が一番苦手なタイプのノリだ…)みたいな集団だったら楽しいだろうなと想像できるオープンな感じ。言いがかりかも知れませんが。
今年1月の金沢旅行で事前に調べて色々訪ねた中、時間が合わなくて(あと風雨が凄かったからね…あの氷雨の中に被災地の方々も支援に駆けつけた各地の消防や自衛隊の方々も居たことを忘れてはいけないよ)入りそびれた「
21時にアイス」という店、岐阜にもあったので足を延ばしてみたのだけど―
あ、うん、実は金沢店の前を開店時間前に通った時も周囲が歓楽の飲み屋街みたいな感じで察してはいたんだけど、自分などが簡単に入れるタイプのお店ではなかった…遊び上手な大学生男女なんかが集まる感じでした…
ちなみに名古屋・栄の歓楽的飲み屋街には「
25時までアイス」という店もあった模様(近くまでは行きました)。30歳若かったら、こういう処に入り浸る人生もあったかも知れませんが、ははは。んにゃ、自分が生まれた年代も、ハードコアな今池で本屋をハシゴしてホクホクしてる人生も取り替えたいとは(あまり)思わないけど。
* * *
はい、翌日の京都も「とりあえず一乗寺に人気の本屋があるから行ってみよっか」と歩いてきました。最初は京都駅周辺で一度くらいタワーに登ってみよう・水族館に行ってみようか・上洛のたびに毎回毎回「近場だからすぐ行ける」行きそびれてる三十三間堂を拝観しようかなど事前には思いつつ、結局は本屋に向かって鴨川沿いを延々歩く。そういう人生。
こんなの京都じゃなくても良かったじゃんと思いもしたけど、まあ1月の金沢では犀川沿いも浅野川沿いも歩きそびれたからね…
そして「多恋人(たれんと)」とか「来夢来夢(らいむらいと)」とかいう店名を「しょーもなっ」と思いつつ嬉々としてコレクションしてる人生。
それに答えてくれる京都。大蔵人(オークランド)もCUT-B(かっとび)も、ごめんちょっと分からない(多恋人なら分かるかと言えば分からないが)…CUT-Bはカッ飛んだ髪の連想からか、ちょっとBUCK-TICK(バクチク)を彷彿とさせますね←いちおう謝っとこう、すみません…
一乗寺に行ったのは初めてかも。宮原るりさんが岐穂もとい岐阜の地元牛乳をキャラ名にしたように、京都が地元(なんだよね?)の
麻生みこと氏のデビュー長篇『
天然素材で行こう』は登場人物の姓が京都の地名由来で、とくに濃ゆかったのが一乗寺クンだったなあ。京都を舞台にした今のまんが
絹田村子『
数字であそぼ。』でも出てきたように地元の大学生にとってはラーメンの激戦区らしい…と思い出したのは現地で店々の前にできた行列を見てから。行列は苦手なのと(
数学でも現実でも←あ、上手くない?ちょっと上手くない?)考えなしに先におなかいっぱいになってたのでラーメン屋はスルー。
んー、実は本屋も軽くスルー。前日の今池が良すぎて、こちらもおなかいっぱいでした。京都の独立系書店のはしりで、イギリスのガーディアン紙が世界の美しい本屋ベストテンに選んだ処なんですけどね。今ほど社会派でなかった15年前の自分だったら夢中になったかも。本屋も御縁なのだ。
本を買ったのは出町でした。つまり復路も鴨川沿いを延々歩いて一乗寺から出町経由で三条まで。
ところで三条あたりの街路で見かけたコレ、何処かで見たような気がするんだけど何でしたっけ?
知ってるよアレじゃん、というかた(出来れば)拍手で御教示いただけると嬉しいです。
そんで出町。京都アニメーション『
たまこまーけっと』のモデルになったアーケードの商店街なのですが:
また話は脱線する。前に東京の大久保でダルバートを食べてた時のこと。ネパール料理店ということでインドカレーのお店ふうのインドっぽい歌謡曲が店内BGMで流れていたのですが、3時間くらいあるボリウッド映画で流れてそうな音楽が不意に途切れて
「保険料が戻ってくる○○社の生命保険…」と日本語のCMが割り込んできた。どゆこと?ああいう音楽、テープじゃなくて有線放送か何かを契約してるのだろうか。で、そうしたチャンネルがインド歌謡曲の間に日本語のCMを入れることにしたとか?
だとしたらスマン!日本の資本主義がスマン!と(スクティをモグモグしつつ)いたたまれない気持ちになったのだけど
何の話か。出町商店街のアーケードには以前から
「ありがとう」「今日も元気だ」という看板がかかっているのだけど、久しぶりに訪ねた三月。前に訪ねたのは五月だったので、実は前からこの時期にはかかってたのかも知れませんが
おのれ!おのれ徴税国家!
…出町商店街は大通り沿いのお餅屋が行列の人気なのだけど、別のお店で桜餅セット、中国茶の茶器・すぐき・古本屋で白水社版シェイクスピアの『リア王』を買いました。すぐきとシェイクスピアが並んで緑とクリーム色の京都カラーなの、ちょっと良きでしょ?
三条まで歩いたのは昔からあるブックオフと「京はやしや」の抹茶パフェ目当てだったのだけど、後者は見つからず。前日の小倉トーストの件もあるから自分の見落としかとも思ったけど、やっぱり閉店してたみたい。二年前から京都に住んでる甥っ子にも奨めていたのでショック。行けたかしら。
・
店舗案内・京はやしや(外部リンクが開きます)
ヨコハマの「日の出らーめん」が日ノ出町(横浜)からは撤退して、なぜか名古屋で複数店が栄えてる話をしたけど、なんとこちらは香港や横浜まで店舗を広げながら京都からは消えてしまったらしい。んー、今回は名古屋で食べそびれた台湾ラーメンやシロノワールを戻ってきてから食べて「ここまでが遠足です」と思ってたけど、横浜の京はやし屋で来週の誕生日にでも食べるか抹茶パフェ。
おまけ。豊橋(駅構内)のおにぎりセットと、浜松のキーマカレー。
ここ数年、夏の18きっぷ旅行は戸外が暑すぎ・むしろ「熱い」レベルで無理がすぎると痛感しており、春のうちにと彷徨ってきた次第。あまりアレを見なきゃココに行かなきゃとガッつかず、遠くに行ってフラフラするだけのスカスカな旅行でいいやと思って行ってきたのですが、こうして記事にまとめると充実して見えるのが面白いですね。
切符はもう一日ぶん残っているけど、あまり無理せず済ませるつもりです。
名古屋カルチャーは死なず〜春の18きっぷ旅行2024(前)(24.3.30)
それまで存在すら知らなかった本を夢のなかで読んで「こういう本があったんだ」と目が醒めてから実際に読んでみるという稀有な体験をした。
黎明期のコンピュータ開発のパイオニアで、プログラミング言語COBOLの開発者としても知られる(昭和ごろにはCOBOLのおばちゃまと呼ばれていた。モアベターよ!)
グレース・ホッパーの伝記。夢の中では四六版・活字のしっかりした和書だったけれど、現実世界だと日本語で読めるのは児童書の絵本のみ。でも良書でした:
★
ローリー・ウォルマーク文/
ケイティ・ウー絵
『グレース・ホッパー プログラミングの女王』(
長友恵子訳・岩崎書店/2019/外部リンクが開きます)
シリーズ「
世界をみちびいた知られざる女性たち」の一冊。
その界隈(人生訓・名言界隈)では
「許可を得るより、まずやってみて失敗したら謝るほうが簡単じゃね?」で名高いらしい彼女のチャレンジ人生は、子どもの頃に時計を分解して組み立て直しても動かず「なんで動かないんだろう→もういちど分解からやってみよう」と家にあった時計7つを分解して、ついに自力で時計の仕組みを会得した「成功」体験に始まる。真空管時代のコンピュータの回路に羽虫が挟まってるのを発見して「これが本当のバグ(バグという言葉は以前からあった)」という逸話も有名だけど、どれくらい彼女が偉大だったかはフラッシュバックで描かれた冒頭のエピソードに詳らかだ。本当に初期のコンピュータで二進法だか16進法だかのプログラムを書いていたとき「何度も同じ計算をするなら、毎回そのコードを書くんじゃなくて、コードをひとまとめのコマンドにして、それを毎回呼び出せばいい」と気づいたのだ。
それまで0110111100101110とか0A 21 34 FFとかだったコードをADD(加算)とかINPUT(入力)といった自然言語(に近いもの)で記述できるようにしたのも彼女だという。何の話か。人間の言語の世界でも、吾々は「毎回はじめから一行一行プログラムを書かなくても、一連のコードを一語で呼び出せるコマンド」を使い回して生きている。「
彼は他人にも自分にも厳しくて怖い人だと思っていたけれど、そんな彼でも誰かの苦境を哀れんで優しい気持ちを表出することがあるんだなあ」という長いコードの代わりに吾々は「
鬼の目にも涙」という言葉を使うことができる。目の前で起きていることを理解するのにも「あ、これは『鬼の目にも涙』だ」「出たな『永田町の論理』め」と(長いプログラムを集約した)ショートカットを呼び出すことで、一から考えることをショートカットできる。そのフレーズを知らなければ、思いあたりも思いつきもしなかったことを感じたりもするのだ。
* * *
というわけで
「漂泊の思いやまず」また18きっぷで漂泊してきました(
なんつう迂遠なマクラだ)。
まずは
名古屋。大阪発祥を謳う串かつ屋と横浜家系ラーメンが、あまりに良い並びで笑ってしまったけど名古屋。いや、名古屋の人だって毎日きしめんでは苦しかろう。本家の横浜・日ノ出町からは撤退してしまった日の出らーめん(神奈川県内にはまだ残ってる)がなぜか複数店舗、生き残ってるのも名古屋。
パンクロックの聖地でコロナ禍以降
「今池ハードコアは死なず」のキャッチフレーズで盛り上げている
今池。ライブハウスに通ったりはしなかったけれど、同人誌の即売会目当てで名古屋に足を運ぶようになって以来、なんだか好きな区画のひとつだった気がする。「台湾ラーメン」味仙の本店をはじめとする飲食店、ミニシアター、銭湯にスーパー銭湯、それに書店、などなど。
味仙本店は夕方からの営業、先週の日記で書いた「うそつかない」ステーキハウスも気になったけど、もっと気になった「レアポークステーキ」を昼食に。生肉(危険)ではなく真空低温調理で
「究極に柔らかい肉塊」「豚肉の常識が変わる」と謳う品なので、なるたけゴツい肉塊を注文して感激するのが良いのかも。いちばん薄め(といっても分厚い)のテキは値段も手ごろ、流行るといいですね。
新刊の人文書を取り扱う
ウニタ書房、本が好き+今の社会に考えるところがある人はかなり惹かれる本屋だと思います。お店でもらったビニール袋、読む者を未知の世界に連れ去るようなUFOの図案に
「Only the book opens the future」(未来を切り開けるのは本だけ)のロゴが素敵。
シンプルな茶の紙袋をとめるテープが白黒ゼブラ柄なのもチャーミングな
シマウマ書房、19世紀ポルノ小説の古典(未読)の名前に乗っかった『ファーニー・ヒルの娘』どんなインチキかと思ったら原著者クレランドによる正統な続編らしい。『ファーニー・ヒル』の発禁処分で打ちのめされたクレランドが再起を賭けた遺作とか何とか。自分は手を出さなかったので、運が良ければまだ文庫の棚に残ってるかも知れません。クンデラとエリアーデを買いました。
18きっぷがあるので今池から徒歩で千種に戻って、鶴舞から大須まで歩けばいいかなと思ったら意外に長かった1500メートル。味噌かつの本店がある矢場町から上前津あたりまでは昔ながらの古本屋が並ぶ通りだけれど、鶴舞→上前津に至る通りにも古書店がちらほら。今池の二店が今回は好すぎておなかいっぱいでスルーしましたが関心のある人は名古屋で古本、イケるかも知れません。
大須商店街。新雀本店の甘くないみたらし団子、コロナ禍・不景気でも健在で何より…と思ったら
ありゃ。10年前(2014年)に畳まれた大須演芸場が復活してる。前にあった頃には快楽亭ブラックの落語を観たりしたなあ。話を地理的に少し戻すと、今池で惜しまれつつ閉館した名古屋シネマテーク(入ったことはない)も同じ敷地で
ナゴヤキネマ・ノイ(外部リンク)として復活したようだし「名古屋カルチャーは死なず」は伊達じゃないのかも。
あいにく演芸場は開いてなかったので、大須の一発ネタを御笑納ください。いやコレをネタと解釈してしまう心が汚れているのだが…
大須から高速道をくぐる幅広の大通りをわたって(何度か言及してるけど
21年2月の日記で取り上げた矢部史郎『夢みる名古屋』の指摘どおり一度で渡りきれない幅。どうせなら待たされる中間にチュロスの屋台でも出せばいいのに)
即売会で地元のかたから前にオススメいただいていた
名古屋市科学館(外部リンク)コロナ禍以降、即売会から事実上引退した今になってようやく訪れることができました。目玉のプラネタリウムは調整中で入れなかったけど、なるほど面白い。
というのも展示のほとんどが体験型のアトラクション(?)で、たとえば発電ひとつ取っても運動エネルギーが電気に変わる→ハンドルを回して発電してみよう!で普通の科博は終わりそうなところを、次は位置エネルギーが電気に変わる→錘を持ち上げ落として発電してみよう!(他にも発電だけで何種類かあった)と、すこぶる盛り沢山。校外学習らしき中学生ズはもちろん、若いカップルも意外に多かったのも頷ける。二人とか多人数でワイワイするのが良い施設だと思います。
目を疑う「内臓パズル」があるとゆうことは
当然のように展示室の反対側には「骨パズル」が。ははは。
* * *
名古屋駅前の一日中「モーニング」をやってる・コーヒーに小倉トーストがついてくる(それはもう「小倉トーストにコーヒーがついてくるセット」で良いのでは)喫茶店が行ってみたら○イーツパラダイスと☆野珈琲店(微妙に伏せ字になってない)になっていた、あんまりだ!と思ったら
通りを一本まちがえただけで小倉トーストのお店も健在だったのは御愛嬌。
冒頭で名古屋なのに串かつ・家系ラーメンとあきれてみせたけど、どこかの土地の食べ物が肩書きを保ったまま他所の土地に根づき広まるのは悪いことではないのでしょう。かく言う自分も今回の名古屋で食べそびれた味噌かつは岐阜で、台湾ラーメンとシロノワールはそれぞれ東京と横浜でいただいたのでした。
岐阜、それから京都の話は後篇で。
君のように生きれたら(仮)〜『イシ』『気流の鳴る音』(24.03.24)
※今回とりあげる二書とも書かれた時代の関係で南北アメリカ大陸の先住民を
「インディアン」、また『気流の鳴る音』では先住民を
「原住民」と表記していますが、引用ではそのままとします。
* * *
ちょっと整理させてほしい。レヴィ=ストロースが『悲しき南回帰線』で文化人類学の先達として敬意を表していたのはアルフレッド・クローバー(夫)で、実際に接した夫が(娘のアーシュラ・K・ル=グウィンいわく)「辛くて」書けなかったイシの生涯をまとめたのがシオドラ・クローヴァー(妻)だったようです。
今年1月の日記を訂正。
というわけで
『イシ 北米最後の野生インディアン』(行方昭夫訳/岩波現代文庫/外部リンクが開きます)今は自宅に本を増やせる状態ではなく図書館で借りて済ませようかとも思っていたのですが、武蔵小山とお別れ(
1月の次の日記参照)のタイミングに古本屋で出逢ってしまったので記念だーと購入(ダメダメ)。ありがとう武蔵小山と西小山。トンテキも美味しうございました。
でも本棚に余裕あるひとは持つに足る、いま19ハタチくらいの人に推奨する基本図書100冊みたいのがあれば選定まちがいなし、古典の風格をもつ名著でした。もちろん何歳で読んでもいいし(現に自分がこの歳)今生で読めてよかった。
1911年、カリフォルニアの田舎で保護された中年男性は副題にあるとおり「北米最後の野生インディアン(先住民族)」だった。自身の名前すら持たず、人間を意味する「イシ」の名で呼ばれた彼はカリフォルニア大学の設立まもない文化人類学科に迎えられ、中世も古代も飛びこえた農耕以前の石器時代と20世紀の文明社会・一身で二生を生きながら西欧人がもたらした結核の病ではかなくも世を去る。
正直この本を読むべく運命づけられてる人は(僕などより先に)とっくに読んでそうで説明不要な気もするのだけど、滋味が細部に行き渡って噛めば噛むほど味わい深いが
(個人的には加大の文化人類学科の設立にパトロンとして多大な貢献をしたのが新聞王ハースト…ではなくハースト夫人だったことが『市民ケーン』との対比で印象に残ったりもした。充実した生を生きられたらしい)
彼の「発見」を描く導入部をのぞけば本書はシンプルに二分できる。カリフォルニアの先住民ヤナ族のあらましと彼ら彼女らが白人の侵略によって(イシひとりを残し)絶滅に至った過程を描く前半と、生きた標本として・それ以上の存在として西欧人たちの中で送った第二の短い生を活写する後半だ。
言うまでもなく、この前半がつらい。序文でル=グウィンが
「ナチによるユダヤ人大量殺戮に等しい」と書き、あるいはより端的に
アメリカン・ホロコースト(
昨年10月の日記参照)と名指される西欧からの侵略者による先住民族の撲滅は、とくにゴールドラッシュで抑制を失ない非道さを増した。驚かされるのは白人たちによる「戦利品」としての皮剥ぎの横行だ。白人たちを襲い頭皮を剥いだのは平地の先住民で、イシたち山岳地帯の住民に皮剥ぎの風習はなかった。もとより平地人たちの皮剥ぎも侵略者への報復であり、それ以前に彼らの世界観や宇宙観・伝統や宗教に基づく神聖な行為だったはずだ。それをパロディ化した醜悪さだけで、本書が告発する侵略者・植民者・あるいは先進的と自ら驕る近代人(とくに金銭に目が眩んだ者たち)の堕落ぶりは十分に代表されうるだろう。
この堕落に対比されるように、まるで滅びた種族が自分たちの最良の資質を最後の一人に託したように、本書の後半で描かれるイシの肖像は高潔な善良さに満ちている。彼が属するヤヒ族の語彙ではgoodbyeを
「君は残れ、私は行く」と表現したという。その言葉に相応しい、慎ましやかな含羞みを「残る」近代人たちに贈って彼は「行った」。残るのが私たちで良かったのか(あまり良くないのではないか)という苦味とともに。
* * *
ある程度(読書)年齢を重ねると、本は一冊で読むものではなくなるらしい。ある本を読めば他の本と関連づけられる。あるいは共鳴し、時には反発して補ないあう。同じ本を読んでも、読む側の履歴によって、得られる内容は時にまったく違ったものになりうる。
次に読む本として、旅先の名古屋で手にしたのが
真木悠介『気流の鳴る音 交響するコミューン』(1977年→ちくま学芸文庫2003年/外部リンク)だったのは「引きが良かった」かも知れない。たまさか本屋でパラパラめくって目に入った
「人間主義(ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられうる」というフレーズに惹かれてレジに運んだのだが、読んでみると
カルロス・カスタネダの要約を中心に(北米と中南米の違いこそあれ)『イシ』が語らなかったことを理論的に補完するような内容だった。
真木(敬称略)自身の
「アメリカ・インディアンの中の文化的に最も遠い二部族の言語の相違は、中国語と英語の間より遠いという」彼ら彼女らをひとくくりにするのは
「旧大陸人の偏見である」という釘差しを大急ぎで引用したうえで、はしょって述べるとカスタネダは70〜80年代に一世を風靡した異端の文化人類学者だ。メキシコ先住民の呪術師ドン・ファンに弟子入りした彼は様々な試験や試練・イニシエーションを経て、自分の中にこびりついた近代人としての偏見を粉々に突き崩されてゆく。
あるいはなかなか偏見を捨てられない、と言ってもいいかも知れない。師ドン・ファンはカスタネダが近代人としての世界観に「耽溺」していると指摘し、その自覚を絶えず促すが、呪術師もまた呪術師の魔術的な世界観に「耽溺」しているだけだと言う。真の自由の道は、どちらの世界にも「耽溺」せず、醒めた感覚で間を進めというものだが、その道はその道で当然ながら孤独な隘路となる。耽溺は束縛で、吾々は…少なくとも僕は「世界の外に出る」ことを絶えず夢みてしまうけど、たとえば魔術や幻覚剤がもたらすような別世界は別の「耽溺」でしかない、そしてどこにも耽溺しない自由な道は逆に何処かに「耽溺」してはいけないのか・それが「根をもつこと」ではないのかと反問したくなる寂しい世界であるらしい。真木は著者としての力量で最終的に(なんとなく)安心できる足場を読者に与えてくれるけど、途中ちょっと途方に暮れる気分にもなった。それも含めて良い読書だったと思うのだけれど…
一冊では自立し自足して見えた『イシ』の世界が、別の本と照らし合わせることで、また違う顔を見せたように思えた。顔と言うより語られない後ろ姿だろうか。
『気流の鳴る音』は70年代後半という執筆時期から、カスタネダと並行して水俣の惨劇が少なからず参照される。アメリカ先住民の絶滅と同様、利益に目が眩んだ近代人が人間にたいして暴虐をはたらいた惨劇だ。チッソを訴えた被害者の一人は言ったという。
「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。それでよか」(石牟礼道子『苦海浄土』)。こうした呪詛は、イシの中になかったのだろうか。
あるいは真木は言う。
「アメリカ原住民たちは白人が彼らを奪い、彼らを捕え、彼らを虐殺したことよりも以上に、白人による自然の破壊にたいして許すことのないいきどおりを抱いたという。それは(中略)
彼らの生と死とを支える大地だったのだ。その解体は彼らの生を奪うだけでなく、その死をも奪ってしまった」(D・ブラウン『わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史』草思社の記述に基づく由)。こうした憤激は。
白人社会に投降し、初めて学者たちと接したイシは(彼の言語での)数詞を教えてくれという問いに十までしか数えず「これで終わり」と答えた。学者たちは彼が十までしか「知らない」ことに驚き、それは彼が物心ついたときには一族が滅亡寸前の困窮状態で、十以上の人数も収穫も知らなかったからだと推定した。ところが後に大学で仕事を得て、給与として貯蓄したコインを彼は何十枚も数として数えることが出来た。
「彼にとって数えるというのは、ビーズ、宝物、箱の中の矢筒の数(中略)
一度に捕えた鮭など具体的なものを数えることを意味したのだ」。正しく質問しなければ正しい答えは得られない、フィールドワークの基本を失念していたことを学者たちは恥じたという。
彼の出自を尊重し、人格に敬意を払う人々に囲まれ、穏やかな微笑みをたたえて短い第二の人生を送った彼にも、やはり奪われたことの痛みがあったのではないか―ただ、それを引き出す「正しい質問」がなかっただけで。
※いや、『イシ』にも彼の一族が受けた迫害について「それには答えたくない」と穏やかに拒絶するしかなかった「間違った質問」が彼に群がる人々から多々あったことも、やんわり書かれてはいるのだが。同書の前半を占める「皮剥ぎ」を含めた植民者の非道は、イシからの聞き取りではなく著者シオドーラ・クローバーが外部の資料≒皮を剥いでやったぜという奪う側の自慢などから丹念に再構成したものだ。
それは逆に救いだったかも知れないと考えるのは傲慢だろうか。もし「正しく問われない」ことで痛み自体が彼の中ですら対象化されず、煮えたぎる「鬱怒」(前回の日記参照)ではなく、意識に上らない穏やかな寂寥で済んだのであれば。
むしろ、奪われた者の苦悶や憤激を自覚しなければいけないのは、正しい質問を与えられぬまま穏やかに微笑んでいることが許されないのは、奪う側に立つ吾々だろう。あるいは、耽溺の外の孤独な道を知らなければならないのは、耽溺がもたらす害毒をまだ停められる段階にある(と信じる)吾々だろう。虐殺を、自然破壊を、吾々は正しく問い、正しく数えなければならない。
シオドーラ・クローバーは責務を果たした。読む吾々もまた、晩年のイシのように穏やかに生きれたらと願う前に清算すべきことがある。←自分でも実行は容易くないことを書いているが、理念としてはそうなので、ここではそう結論づける。先に引いた「人間主義は人間を超える感覚によって…」とは、水俣で水銀禍の先触れとしてあった魚や猫の異変を正しく問い、正しく数えていれば、人間までの拡大は防げたという文脈の言葉だった。
『イシ』を読み終えるタイミングで次の本で真木のカスタネダと水俣に出会えたのは「引きが良かった」のだろうけど、読んでる最中の名古屋で
インディアンズ・ステーキハウス(公式/外部リンクが開きます)なる地元チェーンに出会ってしまったのは、いや平地と山地では「英国と中国くらい」違うけど、いやそれ以前にコンプライアンス的にどうなんだろうと思うけど、どうなんだろう…
ここで記述することすら何だか躊躇われる
「インディアンうそつかない」という文言、かつて存在したことさえ忘れていたぞ…(お手ごろなランチがあったけど昼食は近場の別のところで食べました。その話は来週以降)
打ちのめされるようなすごいダンテ〜須賀敦子・藤谷道夫訳『神曲』(24.03.10)
出藍の誉れと言うべきだろう。
あるいは牛に引かれてと言うべきか。
ダンテ・アリギエーリ『神曲 地獄篇(第1歌〜第17歌)』(須賀敦子・藤谷道夫訳/注釈・解説:藤谷道夫/河出書房新社2018年/外部リンクが開きます)を手にしたのは、当然のように須賀敦子の名前に惹かれてのことだった。
『ミラノ 霧の風景』に始まる名エッセイの数々と、キリスト教への信仰に裏打ちされた深い人間性。長く暮らしたイタリアをはじめとするヨーロッパ文化と文学への造詣の深さ。それぞれ別のところで書かれたものだが「
選挙権を持つ者は社会の不平等を等閑にしてはならない」「
信仰を持つ者がまず避けなければいけないのは、直ぐに社会の役に立たなければいけないという誘惑だ」という相反する言葉は、相反そのままに(自分の場合はとくに前者が)思考の錘として心に残っている。※両方とも今ここで通じやすく改変してるので注意。
98年の逝去から20年、『須賀敦子の本棚』という新シリーズで刊行された本書は地獄・煉獄・天国の全百歌にわたる『神曲』のうち地獄篇の前半のみ収録している。帰国したばかりの須賀(敬称略)が、イタリア語の初歩も覚束ない大学生の『神曲』読書会を指導することになり、その一人(藤谷)が研鑽よろしくダンテ研究を本業とするに至った。先立って須賀が自身の勉強のために残していた試訳を弟子が監修し、須賀の文体をなるべく残したまま学術的な精確さを期した。
というわけで本書は実質的には、監修者である藤谷氏の脚注や解説を読む本ということになる。これが実はすごかった。最も精密な新しい邦訳として話題を巻いた、講談社学術文庫の原晶訳が2014年だから、18年刊行の本書はさらに新しい。最新だからというだけでもないだろう、今まで自分がおぼろげに読んできた『神曲』は何だったのかと(専ら己の迂闊さに)あきれるくらい鮮明なヴィジョンに打ちのめされた。
* * *
まず目のウロコを叩き落とすのは、『神曲』では仏教でいう「鬼」のような悪魔の獄卒が罪人たちをトゲのついた金棒(
いや悪魔だと巨大なフォークか)で攻撃したり、血の池・針の山に追い立てたりはしないという指摘だ。
ダンテの地獄では、人は生前の罪に応じた形で自ら進んで自らを罰する。蓄財に淫した者は汚物の詰まった無価値な球体(めっちゃ重い)をフンコロガシのように転がし続け、生前怒りに身を任せた者は死後も噛みつきあい互いの身体を引きちぎりあう。何とでも交換できる貨幣を至上の価値だと物神崇拝した「金の亡者」は本当の亡者になったとき自身が顔貌を失ない誰とでも取り替えのきくノッペラボウと化し、何も描かれていないノッペラボウの旗を追いかけまわす。
そして咎人たちは、自身が無価値なものに追い立てられていると気づかない。
「なぜなら人は生きてきたようにしか(死後も)
生きられないからである」「悪魔の手間はかからない」このルールを知らされることで、今まで平板なスペクタクルに見えていた地獄の解像度が4K並みに跳ね上がる。他人事ではない、むしろ自分も地獄落ちの罪状にどっぷり浸っているという実感もだ。
ダンテの世界観では浪費や大食も地獄行きの特急券となる。自分の財産を食いつぶした程度で地獄?そうではないと藤谷(敬称略)は解説する。神の前では「自分の財産」などというものはない。
「あなたが独り占めしているのは飢えている人々のパンである」(アンブロシウス)
「羊皮紙を緋色で染め、文字を書くのに金を溶かし、写本に宝石を鏤(ちりば)める。こうしてキリストは彼らの戸口の前で裸のまま亡くなっていくのです」(ヒエローニュムス)といった聖人たちの引用を前に、己の地獄落ちを確信して、うなだれずにいられようか。
あるいは第七歌(123行〜)で藤谷が「鬱怒」と独自の訳語を案出した、怒りを義憤・公憤として表に吐き出さず内心に溜めこんだ罪(と、それに応じた沼底地獄)の身につまされようはどうだ。要は「不満たらたら」ということだろうが、日々感じつつ内に押さえこんだ「ムカつき」が「憤怒」と呼ぶに相応しいほど攻撃的で自身を苛み傷つけることを、吾々はよく知っているのではないか。
ちなみにこの「鬱怒」を集英社文庫の寿岳訳は
「鬱々」河出文庫の平川訳は
「心中に憤懣がもやもやとしている」と訳し、講談社学術文庫の原訳は
「怠惰という霧」としたうえで「怠惰とする説、怒るべき時に怒らず鬱屈した感情を抱え続けたとする説、また怠惰でなく羨望とする説もある」と註をつけている。2014年の原訳が最も堅実な訳と称賛される所以だろうし、個人的には今ひとつ「ノレなかった」理由でもあるだろう。翻って藤谷解釈の(物議を呼びそうな)断定的な側面も察せられるというものだ。
実際「ああも取れるし、こうも取れる」「解釈は各々の読者に委ねる」ではなく「こうだ」だと断定する藤谷のヴィジョンは単語レベルでなく、すでに見たように地獄観を、ひいては『神曲』全体を圧倒的な明晰さで一新する。
たとえばダンテは現世フィレンツェでの政敵を地獄に落として苦しめている・『神曲』はザマアミロと溜飲を下げる娯楽巨篇だという俗説を、藤谷は厳密に斥ける。生前の罪が許されないと判断すれば恩師でも地獄に落とすし、義人と見ればイスラム教徒のサラディンをも辺獄から救い出すのがダンテだ(ちなみにイスラム教の開祖ムハンマド自身は地獄のかなり底のほうに居たと思う。まあ中世カトリックの考え方ではある)。
多くの女性を有徳者と称揚しているのも当時としては画期的で、つまりは既成の権威を恐れぬ横紙破りだったという。口語=トスカーナ地方の方言を用いて書き、また当時は誰にも顧みられなかった古代の詩人ヴェルギリウスを積極的に再評価したダンテは確かに「文芸復興」ルネサンスの先駆者であった。
その一方で、忘却の彼方から引き上げられ、地獄・煉獄の先導者として頼もしさを見せつけるヴェルギリウスもただ絶賛されてるわけではないのが(藤谷が読み解く)『神曲』の重要なポイントだ。キリスト生誕前に没したため洗礼の秘蹟に預かれなかった辺獄の住民ゆえ、天国に入ることは許されずベアトリーチェに先導役をバトンタッチするヴェルギリウス(ツンツンしてるベアトリーチェより萌え度が高い。ダンテのほっぺにチューしたりして読者の地獄行きの罪状を増やしている←
個人の感想です)だが、
すでに地獄・煉獄の時点で、その理性一本槍の思考はたびたび限界を露呈していることが厳しく指摘される。古代ギリシャ・ローマ的な理性、の限界を超えてダンテを導くのは神の恩寵であり、ダンテ自身だ(と思われる)。(と思われる)と留保をつけたのは本書が地獄篇の途中で終わってしまっているからだが、藤谷のまなざす方向は明らかだ。
ダンテの地獄巡りは他人事の物見遊山ではない。人々が罰せられている怯懦や鬱怒・高慢などの罪はダンテ自身が内包するものであり「このままでは地獄落ち確定」と案じた聖母マリアのはからいで始まった旅の中で、ダンテは怯懦の罪を思い知り(第三歌)、義憤を表に出し(第八歌)、高慢を改める(第十歌)。私見を挟めば、吾々の多くは様々な罪状を合わせ持っているはずで、どれかひとつの地獄に選ばれて永劫に閉じこめられるのは妙な話ではあった(その点、仏教の地獄は一つ刑期を終えたら次へと順繰りだった気がする)。『神曲』の要点は罪人が各々の地獄や煉獄に振り分けられることではなく、ダンテが己の罪を数えて洗い出し、改め、ついには師(ヴェルギリウス)をも超えて天国の恩寵に至ることだった。そしてそれはダンテひとりの話ではない。
そもそも第一歌
「人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき(私は正しき道の失われた暗い森の中をさまよっていた)」という冒頭は「ダンテ35歳」のことだという通説も藤谷は
「誤りでしかない」と一蹴する。別の箇所の記述でこの時のダンテは34歳だと知れるし、中世ヨーロッパに「人生70年」という表現もない。「ちょうど半ば」とは世界の寿命が13,000年とされていた当時、その中央(6,500年目)にあたる西暦1300年という意味だ。個人の年齢など知ったことではない、これは天文学≒当時の先端科学に古代ローマの文芸、ラテン語に俗語、社会情勢、つまりは創造された全てを網羅し綿密に配置して、全人類の救済を企図した(神がダンテに託した)宇宙規模のプロジェクトなのだという、これほど確信に満ちた『神曲』像は(たぶん)なかった。
縁あって自身が選んだ研究対象に「人類史に折り返し点を刻みつける大事件」くらい絶大な価値や意義を見出せるのは幸福であり僥倖だろう。今まで『神曲』に親しんできた人は無視しえない新釈だと思うし、新しい読者は(地獄篇の前半のみとはいえ)本書から入るのが一番かも知れない。河出からは平川祐弘訳が文庫で出ているので別の版元が名乗りを上げる必要はあるだろうが+どんどん衰退していく出版界にそれを世に出す力があるか分からないが、藤谷氏による完訳が成し遂げられれば読書界を震撼させる「事件」になるはずだ…という俗な予言(?)はさておき。
地獄に落ちたら出られない、煉獄の罪人は長い刑期を経て天国に行けるが、刑自体は生前の行ないで決められ死後には変えられない、というのも『神曲』の残酷なルールだ。
たとえ来世があろうとも、人が心を改めるチャンスは生きてる今しかない、それがダンテの企図した全人類救済のプログラムだった。
まして本サイトで何度が取り上げている「宗教や説話が説く来世は(
地獄も極楽も黙示録も修羅道も)
吾々の現在の姿に他ならない」という説(
2020年4月の日記など参照)を代入したらどうか。死んで地獄に落ちるまでもなく、鬱怒の沼に沈んでゴボゴボ言ってるのも、金銭というノッペラボウの旗を追いかけて自らも使い捨てのノッペラボウと化しているのも、汚物にすぎない富や名声をゼエゼエ言いながら転がしているのも、現世の現在の吾々ではないか。無神論者よろしく来世を信じないなら尚更「やばい、このままじゃ死んだら地獄だ」ではなく「
やばい、これが地獄か」とビビるべきなのだ。
過食に苦しみ、課金に悲鳴をあげ、娯楽や息抜きだったはずの趣味やSNS・人によってはニコチンやアルコールが強迫観念と化して首を絞められる「快楽の地獄」中毒や耽溺の地獄ほど、『神曲』の亡者たちは現世の吾々なのだと痛感させるものはない。地獄篇の第五歌で「地獄に落ちても寄り添い続ける恋人同士」として愛されてきたパオロとフランチェスカの扱いは「
なに言ってんだ、こいつらは地獄に落ちてるんだぞ」という
ルネ・ジラールの至極まっとうな指摘(
21年1月の日記参照)を知って以来、自分の中でいわば『神曲』への理解度を測る試金石となっているのだが、もちろん藤谷氏はこの点でも遺漏はない。なぜこの二人が地獄に落ちたか、ジラールに劣らず冷徹な解説は各自で精読していただくとして、真の愛が(ダンテのベアトリーチェに対するそれのように)むしろ人を自由にする反面、執着する愛が(現世でも)ジラール言うところの「寄り添いながら相手の顔すら失認する」生き地獄と化すさまを、吾々はプルースト『
失われた時を求めて』のスワンやシャルリュス・主人公の懊悩でイヤというほど確認してきたはずだ←いや皆様は僕の肩越しに。
全ては神の計らいだから罪も更生のため用意された試練と思いなさいは良いとして、義なら来世で報われるのだから現世の不幸も甘受して赦しなさい(復讐は神がする)(カエサルのものはカエサルに)でいいのかという根本的な疑問は別の機会に考えよう。ダンテも怒りの声を正しく上げるのは良しとしているのだ。とはいえ―
人の世の半ば・ダンテの壮大な全人類救済プランから、さらに700年。弱者は裸のまま戸口の外に放棄され、欺瞞と迫害は絶えることがない。ますます現世を地獄に塗りかえている吾々に、恩寵はあるのだろうか。
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煉獄篇第十一歌に登場するシエナのサルヴァーニは高慢な野心家だったが、友人にかけられた(金貨一万枚の)法外な身代金を短い期限で工面できず、広場の地べたに粗衣で座りこみ恥辱に全身を震わせながら人々に支援を乞うた、その一事で地獄行きを免れたという。来世を信じられなくとも、現にこうして彼の名は生前の権勢ではなく人を救うためプライドを捨てたことで(のみ)後世に残っているし、死後を待つことなく現世のその瞬間まさに魂は救われていたのだろう―などと言うことは容易い。でもそれを他者の善行として「いいね」するのでなく自身が実践することが(駱駝が針の穴を通るより)難しいことも吾々は知っている。
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吉行淳之介氏の恐怖対談シリーズで瀬戸内寂聴尼が楽しげに披露した説話によれば、仏教では女好きに特化した地獄があって、抜き身の剣がそそり立つ山の天辺の美女(の幻)を目指して罪人たちは率先して刃で吾が身を切り裂いてゆくのだそうな。ようやく美女のもとに辿りついたと思ったら幻は消えて、今度は山の(球形なのかな?)底に現れるので、また剣の山を飽かずに降りてゆく、その繰り返しが永劫に続く。ダンテの地獄に似てる気がする。たまりませんな。
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