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学園煉獄(仮)〜『保健室のアン・ウニョン先生』『不思議の国の数学者』(23.05.07)

 真夏日の連休、某所で花を観てきました。牡丹と芍薬がメインですが、足元にはレヴィ=ストロースの有名な表紙(未読/外部リンクが開きます)そっくりなパンセ・ソバージュ。花がクローバーの葉と同じくらい小さな花だった。
 芍薬の画像2点(ひとつは花弁に小さなケロヨンが乗っている)とパンセ・ソバージュ。芍薬は草で牡丹は木とか初めて知りましたよ…

 「ウニョンは内心、がんばってがんばって人々を守り、助けていたら、
 白いひげを生やしたり玉のかんざしをつけたりした誰かがある日訪ねてきて
 「ご苦労さま、余生は楽しく過ごしなさい」とほめてくれて解放してくれることを願ってきたのだ
(中略)
 そういう存在はいないと言われると、わかってはいてもやっぱりがっかりした」

 チョン・セラン保健室のアン・ウニョン先生(2020/亜紀書房/外部リンクが開きます)は真夏日を超えて暑いと言うより熱い・アスファルトに真上から突き刺さる直射日光がいっそ痛い!痛い!7月の名古屋で買ったのでした(貴様は今までに読んだ本の入手場所をぜんぶ憶えているのか?)今となってはいい思い出。10ヵ月くらい積んでいたのをようやく読了。
 『保健室のアン・ウニョン先生』書影と、『不思議の国の数学者』を見ると飲みたくなる苺ミルク(ペットボトル)
 韓国の小説です。邦訳の表紙デザインの感じからするとヤング・アダルト向けなのかしら。幼い頃から「見える」体質の保険医と、てんで「見えない」けど育ちがよくて善のパワーを供給できる漢文教師(創立者の孫)が高校で次々に起こる怪事件を解決してゆくうち、当人たちは水と油なんだけど生徒たちからは「あの二人、できてるってよ」とカップル認定され…
 …みたいに書くと想像できる「キラキラ」「はつらつ」「痛快さ」には、いい意味で乏しい。著者自身は「私はこの物語をただ快感のために書きました。一度くらい、そういうことがあってもいいんじゃないかと思いました」と書いていて、それは素敵な啖呵なんだけど、そう言って書かれたものの着地点がこうって逆に趣き深い。
 アン・ウニョン先生は快刀乱麻を断つごとくバッタバッタと怪異をなぎ倒し、迷えるティーンエイジャーたちをも救い導くスーパーヒーローではない。学園退魔ファンタジー、ハイスクール・ゴーストバスター!的に盛り上げることだって出来そうな設定で描かれるのは、むしろ「見えてしまう」しんどさ・金銭につながらない「見えてしまう」に人生の半分を割かれて疲弊したアラサーの悲哀であり、別の言いかたをすれば「見えてしまう」を金銭につなげようとしない愚直さ・あるいはこれを金銭につなげてはいけないと自制させるだけの「見えてしまった」死者たちとの情に満ちた交流だ。
 痛快なゴーストバスターもダメというわけではないです(為念)というキャプションと、爆炎を背にしたホルツマン(ゴーストバスターズ2016)
 不本意に落命した者たちと地続きの世界では、生者も皆それぞれ何かしらの欠損を抱えた存在で、人がつくる社会もまた「完全」にはなれない煉獄として現前する。地獄と呼んでしまうと救いがないので、仮に煉獄と呼ぶ。まだ大人としての十全な自由・自己実現を与えられていない子どもたちにとって学生時代は、より煉獄感が濃厚かも知れない。
 いやいや、卒業しても人であるかぎり煉獄はつづくんだよと知ってしまった大人たちの、生徒に向ける視線は優しい。これは別エピソードで語られる別の若手教師の話だけれど、日本統治や軍人独裁を肯定するよう記述された歴史教科書を斥けた彼が「なぜ歴史は逆流せずに流れることができないのでしょう?」「何であんな悪い人たちが選挙で当選するんですか?」と焦れる生徒たちを「次の選挙では君たちにも選挙権があるんだよ」となだめる断章には、本作の味わいを凝縮した慈しみがある。

 「どうせいつか負けることになってるんです。
 親切な人たちが悪人に勝ちつづけるなんて、どうやったらできますか。
 絶対に勝てないことも親切さの一部なんだから、いいんです。
 負けてもいいんです。それが今回だとしても大丈夫。
 逃げよう。だめだと思ったら逃げよう。後でまた、どうにかできる」

 これは強大すぎる呪いに立ち向かうアン・ウニョン先生を支える漢文先生の言葉。なんとも頼りないけれど「やっつけましょう」「あなたなら出来る」みたいな威勢のいい台詞にはない励ましがあって、もしかしたら女性がヒーローになる物語で男性のバディに求められているのは、彼のような悪く言えば鈍感・よく言えば寛容でふところの深い「人の好さ」なのかも知れない(ちょっと最近観た『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のキー・ホイ・クァンを思い出してしまったけれど、エブエブの話は別の機会に)。
 まあこのあと一応「勝った!」「やっつけた!」カタルシスな場面もあるので、ここまでの「痛快じゃないのがいい」という話の進めかたは、そっちばかり強調しすぎだったかも知れないけれど。各々が欠損を抱えるがゆえに人の痛みも分かる・そしてちゃんと社会の中にいる(最後に登場する悪い呪術のアイテムが、本当に現代の人間の邪悪さで驚いてしまった)男女バディの、かなり遠回しなロマンスでもある。
 SFなども書いているらしいし、この作家の作品を少し追いかけてみたいと思いました。

 まとめ:『保健室のアン・ウニョン先生』ヤングアダルト・ジュブナイルというより子どもたちを見守る大人視点のペーソスが効いた好篇でした。でもこういう大人視点を教えるのも、良いジュニア向け小説なのかも。

      *     *     *
 牡丹と芍薬の見分けかたを知ったり、本で出くわした未知の語を調べたり、知識が増えるのは純粋に楽しい。『アン・ウニョン先生』を読んでて「これは?」と立ち止まって検索したのは、次の名詞みっつ。どれも検索や日本語入力の自動予測でちゃんと出てきて、うーん機械は人間より物識りだ。
「李朝時代の画家、申潤福(シンユンボク)の美人画から出てきたような(古風な顔立ちの)女の子」
広開土王碑を真似た形(の怪しい石碑)
「検索してみたら、極楽鳥花っていうものらしいですよ」

 巻末の訳者解説で少し詳しく紹介されている夜間自習(夜間自立学習)は「そもそもは軍事独裁政権の時代に、親の経済力による教育の不平等をなくすという建前により、塾や家庭教師などが一切禁止されたので、それに対抗して高校が」夜10時頃まで自習室を開放し、学校によっては給食を供したりして生徒たちが自主学習をする、韓国独自の風習らしい。
 ちょうど今ロードショー公開されている不思議の国の数学者(外部リンクが開きます)に、それらしい場面がそういえばあったなあと。
 どちらかというと殺人鬼だったり復讐鬼だったりマフィアに取り入る悪徳弁護士だったり、マフィアへの潜入捜査を命じる非情な上司だったりの印象が強いというか強烈だったチェ・ミンシク。今回も暗い宿直室で何やら書き物をしながらオンボロのラジカセでバッハの弦楽曲を流す冒頭、やだ!殺人鬼っぽい!とワクワクしてしまうが(ワクワクするな)実際は脱北した数学の天才。
 『不思議の国の数学者』いかにも舞村さん(仮名)が好きそうな映画で実際オススメなんですけど、これで最初にチェ・ミンシクおじさんを好きになった人に、次はコレとオススメできる映画がない…芸風が違いすぎて(『新しき世界』かなあ)というボヤキと「ふだんの芸風」としてハンマーを振りかざした『オールド・ボーイ(2002)』チェ・ミンシクの悪相
 偏屈な佇まいに優しさと罪悪感を隠した彼が、貧しい片親家庭ということで特例でエリート校に入学したけれど挫折寸前の落ちこぼれ少年に学問のよろこび・人生の悲喜(數学より人生のほうが複雑だ)を手ほどきする一方、若者の純真さに触れて自身も救われていく、模範的な師弟物語でした。
 こちらの物語では数学の本質が「見える」ことは純粋な祝福・ギフトで、学園・もしかしたら社会そのものという煉獄からも脱出できるアリアドネの糸のように描かれていて、そういう意味では感触は違うけれど、意外なスマッシュヒットとして心に残りそうな作品なので、こちらもオススメです。

 
(追記/23.5.11)チョン・セラン、SF地球でハナだけ(2022/亜紀書房/外部リンクが開きます)も予想外の展開で面白かった!まあネタバレなので一応たたみます(クリックで開閉します) て話なんですけど。最後の最後まで予想外。
 ちなみに今回ネット検索した単語は「ダイオキシンみたいなヤツ、PM2・5みたいなヤツ、いや、マイクロプラスチックみたいなヤツ(中略)メトキシケイ皮酸エチルヘキシルみたいなヤツメトキシケイ皮酸エチルヘキシルって何?「もっとひどい罵倒を浴びせたかったのに、残念ながら語彙が足りない」いや、十分な語彙力よ…

 作者が違うけど一緒に読んだキム・チョヨプわたしたちが光の速さで進めないなら(2020/早川書房/外部リンク)も一気読みの面白さ+雰囲気というか根底にある価値観が似ている気がしました。
 『ハナだけ』では異星人が「恥ずかしがることないよ。地球はいまでも平和とはほど遠いけど(中略)アーシュラ・K・ル=グウィンと何年も同じ星に住んでたでしょ?それは自慢していいと請け合っててニコニコしちゃった(笑)。韓国の若手女性によるSF、ちょっとイイかもですよ。

平地人を戦慄せしめよ〜台湾ホラー『紅い服の少女』『ブラックノイズ 荒聞』(23.5.14)

 他人の夢の話はつまらないと相場が決まってる。まして死ぬ夢なんて縁起でもない。いやーさすがに目覚めてすぐ「たしか死ぬ夢は逆に吉夢だったはず」と調べましたよ(笑)。吉夢とは言わないけど、死ぬ=生まれ変わりたい・心機一転とか生きかたを改めるとかを自身が望んでることの反映なのだそうです。
 自分が見る悪夢の定番(ヤな定番だな!)「なぜか今の齢で高校や大学に再入学してる」「前のアパートを実は引き払えてない」等々に近ごろ新規参入を狙ってるらしいのが「台湾に行ったけど街に辿り着けない」さあ台湾ですよと真夜中なにもない平野に置き去りにされ何キロか何十キロ先に(たぶん)台北の灯りが見えるとか悲しかったなあ。
 今回はそれが着くともう役場?で帰りの便の話をされてて「え、魯肉飯も食べてないのに」と思う間もなく、夢ならではの超展開で気がついたら理不尽に絞首刑の宣告。「魯肉飯も食べてないのに!」と泣きたくなったけど、どうせ命乞いとかしても無駄だろうし「いや!存分に生きた!」と運命を受け容れようとする自分、夢の中でも強がり(?)でした。
 ここにつなげるの無理があると思うけど、人の運命が理不尽に決められるのいくないと改めて思いました。入管法改悪反対。(縞々の囚人服を着て牢屋に入れられた自画像)

 こんな夢を観たのは、前日まで台湾ホラーのことを考えていたせいかも知れません。
程偉豪監督紅い服の少女 第一章・神隠し/第二章・真実』(公式/外部リンクが開きます)
張渝歌ブラックノイズ 荒聞(邦訳2021/文藝春秋/外部リンク)
 モチーフが似てるんです、この二作。
 モノクロっぽい画像に少女を赤でハイライトした『紅い服の少女』チラシと、南方らしい熱帯林の奥に和服の少女が「ミナコです…」と佇む『ブラックノイズ』書影。
 まず映画『紅い服の少女』。元になってるのは90年代に怪奇番組で騒然となった山でハイキングを楽しむ家族の動画に映ってる見知らぬ紅い服の少女いやもうコレだけで怖いんですが、ほんらいの被写体だった家族が直後に謎の死を…みたいな理屈がついた都市伝説。それに台湾伝来の妖怪「魔神仔(モーシンナア)」信仰をマッシュアップ・「魔神仔(紅い服の少女)によって山に攫われると身代わりになる誰かの名を呼ばないと戻ってこれない」戻ってきた後も取り憑かれは続く…という設定で描かれるホラー映画の二部作。
 魔神仔に化かされた人は供された昆虫やムカデなんかをゴチソウと思ってモリモリ食べてしまう(後でゲーとなる)という昔からの伝承が、映画では絶妙なイヤさで活かされててその場面では目を閉じてました(笑。イヤなもの観たさに映画館に行ったんだろうが)。第二部では「タンキー」というシャーマンの若者が道教の神「虎爺(フーイエ)」を憑依させ失踪者を探すのも興味ぶかく。
 タンキーの漢字は本サイト(Shift-JIS)では出ないんです。童の字+礼のネが占に替わった字。そして顔を白く塗って赤金の装束をつけたタンキーのイメージ図。
 けれど物語・とくに第二部が怪異を最終的に母と子の絆というか、幼い子を死なせたり中絶したりした母の罪責と償いの形に話を帰しすぎなのが中年男性の自分でも「ないわー」だったんですね。アメリカの反動的な中絶禁止(プロライフ)や、日本のアレコレも思い出されて。ちなみにパンフでも解説(栖木ひかり氏)が「ないわー」と明言されてて、そこはちゃんと批判する公式・逆にいいぞ+諸々の事情で毎回は買えないのですがパンフもいいものですね…

 そんなわけで別視点で仕切り直しと思ったのが小説『ブラックノイズ 荒聞』…同じモチーフかと思ったら、だいぶ違いました。山の中に「紅い服の少女」を配した表紙…と思いきや、よく見ると着物。作中では鳶色(とびいろ)となっていて、人々を惑わす怪異は「ミナコ」という日本人名。
 こちらで目を引いたのは台湾・台北の社会の重層性。戦前の、日本による統治(支配)。おなじく日本統治下にあった満州の首都・新京からの移民。もちろん本省人と外省人。本作ではブヌン族がフィーチャーされる少数民族。台湾人だけど北京でビジネスを展開する富裕層。さらに(地図を観ながら読んでたのですが)台北という首都に直に接する山々。本作でも魔神仔は多少なり言及されてるし、気がついたら虫をたらふく食べててオエエエのサービス(?)もあり(まあイヤだからこそ書きたくなるのは分かる)
 地図。台北駅から物語終盤の舞台となる山地まで(台北駅から主人公の妻が入院する病院もだいたい等距離)は、東京でいうと秋葉原→品川くらい。
 そしてそれらのレイヤーが互いに錯綜し対立しあう。映画『紅い服の少女』でも魔鬼仔は伐採された木々の数だけ人をさらって山に植えるという台詞があったように、都市と山々・ヒトと怪異の対立。そこに日本が土足で踏み入った歴史(霧社事件や、台湾の最高峰・玉山を新高山と改称したり)。そうでなくても現代も少数民族の子女が(選択的に)性産業に搾取される構造。重層性への着目・それが台湾なんだという自己定義は、単一民族・総中流と(なんなら「絆」も)均質性・一体性を夢みがちな日本と対照的かも知れない。
 加えて描かれるのが貧富の差。主人公は正社員から白タク運転手に転落、奥さんも非正規のダブルワークに就くが、それぞれ職場の事故で多額の賠償金を抱え、えげつないほどの生活苦にあえいでいる。一方で主人公を軽蔑するハイソな義姉は逆に夫の浮気で、人生への自負がガラガラと崩れ落ち…怪異はなんなら最後の仕上げにすぎないくらい、急速な経済成長と格差拡大がもたらした人心の荒廃が恐ろしい。

 逆に言うと下も上も経済至上主義に振り回される現状自体がすでに地獄で、ホラー的な感興は少し食われ気味かも。満を持して登場のミナコさんもミナコデス…いや丁寧な物腰でどうする。
 昔からの持論として、科学vs怪異という外見とは裏腹に、SFはすべてを合理的に説明したうえで何か解けない未知の感情が残るのが最上だし、ホラーは非合理なように見えて全てが(怪異のしわざにしても)きれいに説明されないと座りが悪い。とはいえアンチミステリならぬアンチホラーとでも呼びたくなる『哭声』みたいな例外もあるのだけど、『ブラックノイズ』はきわめて真面目だ。真面目+重層性が加わったぶん、それらを最後にまとめる謎解きが少し強引で(思えば『紅い服の少女』も同様の弊害があったかも)不条理づくめじゃ終われない・理に落ちすぎると興醒める、とかくホラーは難しい。難しいなあと思ったのでした。
 「映画『紅い服の少女』 は怪奇動画やドクロ模様の蛾などビジュアルで攻め、小説の『ブラックノイズ』 は幻聴や録音テープ・旧式ラジオに公衆電話と聴覚を強調してるの巧いなあと思いましたです」羊たちの沈黙でもおなじみドクロ蛾のイラストつきで。

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 台湾映画、語れるほどは観てないけれど学園ホラーと軍事政権時代の恐怖政治の悲劇をオーバーラップさせた『返校 言葉が消えた日』が鮮烈だったし、『紅い服の少女』に続く程偉豪(チェン・ウェイハオ)監督の『目撃者 闇の中の瞳』はトレンディなシティ・サスペンスが「ホラーじゃんコレ!」と映画館の闇の中で瞳を閉じたくなるほどゴアで悪趣味だったし(ええと…褒めてるのか?)、怪物より高校生のいじめが残酷という評判がイヤすぎて観そびれた『怪怪怪怪物!』もある。
 小説でも18年9月の日記で紹介した『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』の絶望感と錯綜した語りはホラーに近かったかも。これもイヤすぎて手を出せずにいる『房思Lの初恋の楽園』も一種のホラーと言えるのではないでしょうか。

 最終的な出来とは別に、その社会にとって何が恐怖か・何が禁忌で罰せられるべき罪なのか等、ホラーや怪異譚には人々の規範を写す鏡のような興味深さ・味わい深さがあると思う。ホラーに見る各国の社会事情みたいな研究は、もっと相応しい誰かがされてるだろうと期待できるし、日本社会にとっての「恐怖のかたち」も知ってみたくはある。
 上では均質性と書いたけれど、かつて柳田國男が(山の怪異よ)平地人をして戦慄させしめよ(遠野物語)と謳った東北で、今も盛んらしい+震災で新しく生まれもしたらしい怪談・ホラーも知りたいような知りたくないような分野で宿題です。(三月の旅行でそのへん探求できるかと思ったけれど本屋の店頭では何が玉で何が石か、予習なしには判別不能でした…)

替えの効かなさ〜アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(23.5.20)

 「ギリシャの奇跡」とネット検索で調べると「1950年から1973年にかけてのギリシャにおける高い経済的・社会的成長率のことである」と出て「えー」となる。ちなみに同時期、その奇跡のギリシャを抑えて経済成長第一位だったのは日本らしいのだが(Wikipedia調べ/ときどき寄付してます)、まあその話は止す。今回は。

 そうではなくて、19世紀の思想家ルナンが(純粋な)科学や哲学・芸術は古代ギリシャで生まれた、かつて一度だけ存在した奇跡だと語ったという話。

「なぜ世界史でただ一度、ギリシャでだけ(デモクリトスやピタゴラス・あるいはソクラテスやプラトンの)科学や哲学は生まれ得たのか」という問いは、たった一度のと言いながら「そしてなぜヨーロッパでだけ、それらは(ニュートンやデカルトなどの)近代合理主義として再び生まれ得たのか」という問いを含んでいるだろう。まあイイ気な話ではある。
 かつて日本でも「どうしてヨーロッパと日本だけ近代化に成功したのか」的なイイ気な論考があって、こちらは世界各地の「ヨーロッパと日本だけ」でない国々も次々と経済発展を成し遂げ「答えではなく問いの立てかたが間違っていた」わけだけど、その日本も他の非西欧諸国も否応なく取り入れた近代的思考とやらが「なぜギリシャで生まれ・ヨーロッパで再び生まれたのか」という問いのほうは、そうなってしまったことを批判するにしても、まだ有効性を失なってはいないだろう。
 ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』を詳細に読み解いた『地理哲学』でロドルフ・ガシェは、哲学や科学=近代的思考とは、神様など不可知なものに頼らない世界の究明だと説いている(22年8月の日記参照)。では、それはなぜギリシャで生まれたのか。それは周囲のエジプトやペルシャなど同じ神をいただく同一民族の王国と違い、多民族が交易する商業国のギリシャでは(何の神を信じていようが)誰もが共有できる思考の尺度が必要だったからだという説がある。わりとすごいことを書いてるのだけど、びっくりしません?藤のようさんの漫画『せんせいのお人形』で読んで、僕はびっくりしました(20年8月の日記参照)。

 そうして生まれた近代は、しかし環境破壊や世界大戦・ホロコーストや金融危機・人を人として扱わないあらゆる災厄を巻き起こしている。ギリシャで生まれ、ヨーロッパで再度生まれたはずの合理主義が貫徹されていないせいだろうか。それとも合理主義そのものに問題があるのか。
 西洋が科学と呼ぶものは、観察の蓄積ではなく説明の体系である
 アルフォンソ・リンギス何も共有していない者たちの共同体(邦訳2006年/洛北出版/外部リンク)は科学や哲学を生んだ「誰もが共有できる尺度」自体の、負の側面を指摘する。彼は言う。
「異邦人がやってきて(中略)「どうしてそのようなやり方をするのか?」と尋ねたとしよう」
エジプトやペルシャ・インドや中国での答えは「私たちの父祖がそうしなさいと教えたからだ、私たちの神々がそうあるべきだと命じたからだ」となる。けれど通商の民だったギリシャ人が「そうした先祖や神々を共有しない異邦人にも受け入れられる理由―明晰な精神の持ち主であれば誰でも受け入れられる理由を与え始めたとき、何か新しい事態が誕生した」
 誰もが受け入れられる理由を、最初に受け入れざるを得ないのは自分自身だ。ああしたい、こうしたいという願望は「これこれの理由で正しいから」という説明にとって代わられる。私が正しいなら、私の考えは誰もが同意する、万人に共通の考えでなければならない…だとしたら、そう考えるのは私でなくてもいいのではないか

 誰が考えてもE=mc^2なら、その考えに至るのはアインシュタインでなくてもよかった。取引が成功し、製品が組み立てられ、企業や社会の目標が達成されるなら、それをするのは自分でなくてもよかった。人は、誰もが、そして皆が語ることを語る。前に誰かがいた席について、前の誰かが学んだことを学び(あるいは誰かがしたと同じ仕事をして)解放された終業後は「すでに身につけた社交術を使って他者と交わる」そして代替品として次の誰かに席を譲る…リンギスの語りは辛辣だ。辛辣だ、けど、自分なりに思考を振りしぼって発したつもりの言葉が「それな」私もそうだと知っていたよとばかりに「同意」されて、ときどき感じる虚しさはなんだろう。近ごろ流行りの言葉は「ルーティーン」だ。朝の習慣・寝る前にすることがそう呼び直されるとき、生活をそこまで「業務」化していいのかと思う僕も、気がつけば毎月これだけ読んだり観たりしたいと日々を「ノルマ」で数量化している。
 …リンギス自身が著書で述べてることを、少しはみ出してしまった。はみ出しついでに言うと「ギリシャの奇跡」的な誰もが共有できる尺度が「私でなくてもいい」に帰結するならば、ギリシャ以前・以外の「父祖が・神が決めたから」も同様ではあるはずだ。せっかく読んだ(ノルマを果たした?)ので引用するとミハイル・バフチーンはラブレーを描いた著作で、合理主義が再登場する前の中世ヨーロッパでは、神の恩寵の中に生きる民衆は生も死もそのままに受け入れ、個人の死は近代人にとってのような大ごとではなかったと説いている。死や生を苦しまず受け入れる境地は正直ノドから手がでるほどほしいけれど、それは「私は私」という自我と両立できないのではないか。ああ、Imagine there's no possesion, I wonder if you can
 ちなみに自分、現代はギリシャでいいけど古代のほうは「ギリシア」がいいなあと思ったりもする…というキャプションと、ゼウス(リングにかけろ)のイラスト

 私の存在が一度きりで替えの効かないことくらい、キイを叩く両手を自分に向けてひっくり返し、掌に満ちる体温を感じるだけで分かる。この私自身にとってのかけがえのなさと「別にあなたでなくてもいい」という合理主義や父祖の教えの齟齬が問題なのだ。
 少し文学的に位相をずらすと、満天の夜空にさんざめく無数の星々のなか地球という小さな惑星の、他でもないこの地域この時代に私たちが肩を並べて存在していると思えば気が遠くなるほどの奇跡なのに、なぜそれほどの奇跡を喜びとして日々体感して生きていけないのだろう。
 「人が親族性を認めるのは、「家族的類似性」を認めることによってではない。親族性の承認とは、義務の認知である」旅人として世界中を渡り歩いたリンギスは、私が「かけがえのない私」になれるのは、何も共有していない共同体の成員になる=自分とは価値観を共有していない・互いに義務をもつ親族でない他者に命を預け、預けられる特異な瞬間だけだと言う。それは実現困難すぎやしないかと思う。誰もが彼のように異邦人として異国を彷徨できるわけではない。
 すべては私にとって異質な他者で、自分という細胞が外界の異物をとりこみ新陳代謝することは常に奇跡だと思えば、生は驚きと輝きに満ちている。けれどたとえば本を読んで感銘を受けたり、水キムチが思いのほか上手く出来たり、SNSでバズってるネタに爆笑したり、スマートフォンの画面で色つきのタイルを消したりだって生の奇跡だと強弁できてしまうのは、たぶん危うい。迫害されたり酷使されたりして生が脅かされることこそ、かけがえのない生のしるしだと悪用されるのは、もっと恐ろしい。

 …なんか分からん話になってしまったけれど、簡単に分かってしまって「それな」と言うことはリンギスと、リンギスを読む自分を「替えの効く誰か」にしてしまうことだろう。という逃げかたもある。
 今回の日記で拾いそこねた部分は多々あって、たとえば「拷問や常習的なレイプは、類人猿や猛獣の本能への退化ではなく、数千年にわたって練り上げられた父系社会の制度にこそ基づいている」という指摘など頷かされるものがあり、けれどこうして抜粋してみると他の誰かも言っていたようなことに見えてしまう。ここにリンギスが拘泥した近代の罠があるとも言えるし、リンギスにしても『せんせいのお人形』にしても実物を読まないと体感できない「替えの効かなさ」があるし、この方向を極限まで極めた先に「何も共有しない者たちの共同体」がうっすら予感できる気がします。
 別の言いかたをすると、自分たちの存在があまりにreplacable(取替がきく)・disposable(使い捨て)だという気づきに苛まれたとき、手にすべき書物かも知れません(解毒剤にはならないんだけどね)というキャプションと、夜空の窓を背に本を読む「ひつじちゃん」

スティーヴン・グリーンブラット一四一七年、その一冊がすべてを変えた(邦訳2012年/柏書房/外部リンクが開きます)は15世紀イタリアで古代ギリシャの思想家・詩人ルクレティウスが再発見されたことが「ギリシャの奇跡」のヨーロッパ再演をもたらしたと説く全米図書賞・ピューリッツァー賞受賞作。ちょっとメンタルに来るので読むのは元気があるときに。
深田孝太朗「ギリシャの奇跡」は起きたのか? マルグリット・ユルスナールにおけるユマニスムについて」(2021/フランス語フランス文学研究/外部リンク/PDF書類が開きます)は短めの論文。若い頃、そんな難しいことは考えずに読んでいたユルスナールを再読する機会はあるかなあ。

説"我想吃三明治"!〜映画『青春弑恋』(23.05.23)

 突然ですが「忍者メソッド」って知ってますか。ハリウッドだか何処だかの脚本スクールみたいなのが言ってるのですが、自分が作家だとして、もし任意の場面で「そこに突然ニンジャが現れる」と置き換えたほうが面白かったら、その場面は面白くない(ニンジャに負けてる)から書き直せとか言う。
 最近スコット・アドキンス主演・その名も『NINJA』という映画(2009)を観て、いやまあ面白い部類だとしておきますが(まあ甲賀流を破門され号泣する伊原剛志さんを「照英さん熱演だなあ」と見間違えた自分に語る資格はないな?)「本作に限っては、話をより面白くするためにニンジャに置き換えることが出来ないのが厳しい」と思わないでもなく…
 ↓三年くらい前に描いた「忍者メソッド」テストまんが。自作『神様のギフト』『二人は恋人同士になれるかも知れない』(それぞれ外部リンクの電書案内ページが開きます)のスピンオフ。
タイトル「Pretty in PINK」:満面の笑みで恋人の川上秀吾(高校生)にピンクのウィッグを被せようとする月子さんa.k.aルナたそ(コスプレイヤー)。月子「イケる!やー絶対にピンクもイケると思ってたよ!(けけけけ)」 秀吾「そう思ってるならなんで指さして笑ってんの?」 秀吾の姉・真由「月子さんてば、また秀くんをオモチャに(ぷんすか)」 月子さんの妹分・アケル「まあまあ」 月子「いやほんと似合ってるって!そだっ頬杖とかついてみてよ(メガネも外してさ)」 言われるままにポーズを取り「もー…これでいいですか?」と秀吾。 アケル「おお!」 月「ほーら似合う!コスプレイヤー始めてみない?指導するよ?」 秀「やですよ」 月「えーノリノリで応じてるのに」 秀「あのねえ月子さん…(メガネを戻して)月子さんが喜ぶのが楽しいから僕も応じてるの 月子さんは特別なの(公に見せる趣味はないよ…)そのへん分かってる?」 虚をつかれ「あ…は そうですね…どうも」と顔をピンクにする月子さん。 アケル「…確認だけど秀くんて真由ちゃんの弟さん…だよね_」(なんか私たちお相伴に預かってますけど…) 真由「戸籍上は…ね(精神年齢はどうだろ…」←君たち三人が寄ってたかって精神年齢を高くさせたんだけどな…
 そして忍者バージョン。(↑↓クリックすると別窓で拡大画像が開きます)
月子「そだっ頬杖とかついてみてよ(メガネも外してさ)」 言われるままにポーズを取り「もー…これでいいですか?」と秀吾。 アケル「おお!」 月「ほーら似合う!コスプレイヤー始めてみない?指導するよ?」 秀「やですよ」 月「えーノリノリで応じてるのに」 秀「あのねえ月子さん」から突然「ニンジャ!!」刀を振りかざして乱入。月子さん、すかさず秀吾の頭からウィッグを奪うと忍者の顔に押しつけ「ムガッ」視界を奪って金的を膝蹴り。「グエエエ」 真由をかばいながらアケル「おお…急所を最初の一撃で」 真由「月子さんなんでそんな強いの?」

      *     *     *
 前回の日記では書名からして惹かれた本の話をしましたが、映画も題名で観たいと思うことがある。地元のミニシアター「横浜シネマリン」で上映中の青春弑恋(せいしゅんしれん)(シネマリン公式/外部リンクが開きます)。試練じゃなくて弑逆の弑に恋で弑恋(しれん)…このタイトルのつけかた、台湾な気がする…
 台湾映画でした(笑)「ポスト「台湾ニューシネマ」の鬼才ホー・ウィディンが放つ衝撃作」「悪夢のような惨劇―――誰も逃げられないまた台湾の、心を削る作品か!!(先週の日記参照)でも観ちゃうんだなあ。
 台北の、早餐(モーニング)を供するカフェで出会った若い男女。元船乗りの料理人=溌剌とした好青年が積極的に好意を寄せ、幸が薄そうなヒロインも心を開いていく。けれど本作の主役は彼ではない。
 すっかり打ち解け何処かに出かけるのだろう、台北駅の名所でもある大きな吹き抜けのホールに佇む二人。そこに黒ずくめ・フードの紐を締めて目だけ出した男が駆け寄り、日本刀で斬りかかる。ええええ忍者!?忍者メソッド?

 いや、忍者ではなかった。黒ずくめのアサシンとなって敵キャラを次々と斬り殺すゲームに没入していた大学生が、取り寄せた日本刀で現実世界の凶行に及んだのだ。物語はむしろコミュニケーション不全で鬱屈を抱える彼が破滅に突き進んだ経緯を、錯綜した人間模様とともに描く。「??」と思う展開もあるし、登場する皆に救いがあるわけでもないけど(最後に救われる人物もいて、それは本当にほっとするのだけど)絶望も愚かな行動も、軽蔑や断罪ではなく、不思議と同情や共感を誘う。万人に満足を約束できるオススメ作ではありませんが、自分的にはこういうのもアリでした。
台北駅(臺北車站)のホール。屋内です。ツルツルの床には座ってる人も。

 で今回の日記タイトル。横浜シネマリンで「中国語割」なるイベントが実施されてて、窓口で「我想吃三明治(ウォ・シャンチー・サンミンチー=サンドイッチ食べたい)」と言うとサービスデーでなくても入場料が1300円になるそうです。あと神奈川のミニシアターでは5月いっぱい共同で学生割500円(外部リンクが開きます)もやってるらしいので。
 お得情報も含め、取り急ぎのサイト日記更新でした。実は今、中国語の勉強(?)を再開しています。←いや全然聞き取れとかしませんでしたけどね

天国は地上にはない〜映画『ヘマヘマ 待っている間に歌を』(23.5.28)

 今回の日記の主旨とはまったく関係ないんだけど、カイリー・ミノーグの新曲とMVがなんかヤバい:Kylie Minogue - Padam Padam (Official Video)(YouTube公式/外部リンクが開きます)中毒性がある楽曲と、美しいのに「不気味の谷」の二歩手前にあるような不穏なビジュアル。スタイリッシュな歌手やダンサーたちとは対照的な、20世紀の栄華の残骸みたいなダイナーや廃車置場は何なのだろう。80年代は死んだけど、カイリー・ミノーグはドラキュ…もとい(←いや日光の下に居ますがな)不死鳥のように生き続ける…的な暗喩と見るのは深読みが過ぎるかしら。
 そして今回の日記タイトルは彼女(ミノーグ)がアイドルとして売り出した80年代の、別の歌い手のヒット曲=ベリンダ・カーライルの「Heaven Is a Place on Earth」を念頭においてるのだけど、はい、無理に結びつけようとしなくていいから…

      *     *     *
 科学的な発見や知見は、人の社会的な価値観・人文的な意味での世界観に、どれくらい影響を与えるのだろうか。地動説や進化論・相対性理論などが吾々の物事の考えかたをどう変えたか、変わってしまった今の吾々が知ることは逆に難しい気もする。けれど「進化」「○○のDNA」といった言いよう、近ごろだとフィクション作品でのマルチバース流行りなど(多くの場合は誤解を含めながら)科学ほんらいの領域を越えた影響も、多々あるのではないだろうか。
 量子力学の不確定性原理は吾々の、いや妙な一般化はやめよう、自分(僕)の世界観・価値観をどれほど左右したのだろう。素粒子や量子のレベルで言うと、一つの粒子の位置(今どこにいるのか)と速度(どれくらいの速さで動いているのか)を同時に観測・決定することはできない、片方を「こう」と決定したら、もう片方は測定不能になってしまう…この科学的原理と、いつからか自分が抱くようになった「人の認識には限界があって、盲点みたいに(←これも科学用語か)把握不能な領域がある」という人間観・世界観は関係があるのだろうか。
 複雑系が話題になったころに始まる大澤真幸の議論の影響もあったろう(19年5月の日記参照)。最近また脚光を浴びた三体問題=二つの天体なら簡単だが、互いに引力で影響しあう三つの天体の位置関係はもう把握できないというポアンカレが提出した問題も、もしかしたら遠くでコダマしているのかも知れない。

 人類は容易に言語化できることだけを言語化して、それで世界を理解しきったつもりになっているけれど、上手く言語化できないから後回しにしている領域があって、ひょっとしたらそちらのほうが重要で大事ではないのか。物事を突き詰めて考えすぎると途中で「これ以上かんがえるとヘンになる」と引き返さざるを得ないのではないか。
 ここしばらく繰り返し言及している『哲学とは何か』は世界というカオスを神という「外部」なしに把握するには哲学・科学・芸術という三方面からのアプローチがある(つまり一本でズバーン!という把握の仕方はない)(そこで芸術が哲学や科学と同格扱いされてるのは名誉なことだと創作者としては思う)としているし、近年話題になったマルクス・ガブリエルの議論も同じ路線にあると思う。
 哲学はクォークやブラックホールにはてんで歯が立たないと嘆くけど、素粒子物理学だって人生とか社会とか説明できないわけで、つまりすべて対象にできる枠組=「世界」ってもの自体存在しないんだよと説くマルクス・ガブリエル。
 そして、ひょっとしたら社会も同様ではないのか。「In every dream home a heartace」(どんな理想の家庭にも、一つは心痛の種があるものだ)と言うように、どれほど理想的に見える国家や社会形態にも何かしら欠点や欠陥があって―むしろ剣に生きる者は剣に倒れる=剣に倒れる者は剣でしか生きられないように、その理想でない欠けた点こそが、その社会のアイデンティティの急所であり核(コア)・強みですらあったりはしないか。
 もちろん「だから不正や理不尽も受け容れろ」と言うのではない。世の中には「マシ」ってものがあり、「ひどい」は「そんなこと言ったって、どうせ理想は実現不可能じゃないか」という頑是なさで正当化できない。いや、むしろ理想が地上に「ある」と思ってしまうことが、現実への憎しみにすら思えてしまう今のデマやフェイク流行りを呼んではいまいか…とは話が逸れるので今回は止める。
 4/2の本サイト日記で「ウソをつかないと説得できないあなたたちの正しさって何」と書いたけど、デマやフェイクは主張を通したいための手段だけでなく、むしろ現実を毀損したいという目標も兼ねているように思えてきた…
 クラストルが南米に発見した「国家に抗する社会」は、隣接する部族と首を取りあう恒常的な戦争社会だった。19世紀の画家が憧れた南洋や、チャトウィンが旅したオーストラリアの「ドリームランド」はどうなのだろう。奇跡的なバランスで一時的に局所的に成立する以外には、地上に真の意味でのパラダイスが出現したためしはないのではないか。

 映画配信チャンネル「JAIHO」で(期間限定でなく)常設公開されているヘマヘマ 待っている間に歌を』(2016年/ブータン・香港合作/外部リンク/人の過ちの一つとしてレイプ描写があるので注意)の監督ケンツェ・ノルプは仏教界の高僧でもあるらしい。
 登場するのは鮮やかな色彩に満ちた、様々な仮面を着用した人々。12年に一度、山の中で行なわれる秘儀が描かれる。なんかもう、神話的なものや文化人類学などに関心のある人・大阪の民博や名古屋のリトルワールドなどが大好きな人は絵面からして、もう陶然としてしまいそう…いや、これも一般化はやめよう、陶然としたのは自分だ。
 『ヘマヘマ』の様々な仮面と「せっかくこんな格好なのに…」と垂涎を垂らしつつ涙目の「ひつじちゃん」
 けれど本作は超越的な世界や・まして楽園を体感させてくれるものではない。儀式は超越的な世界=どうやら死後の魂が裁きを受け次の世に転生する過程(バルド)を舞踏や音楽・無言劇で疑似体験させるものらしい。しかしそこに集う人々は現世・実社会の不完全さを捨てきれない。仮面は現世での素性を伏せる匿名化のツールに過ぎず、せっかく来世を予感させてくれるはずの儀式そっちのけで人々は俗世そのままの欲にかられて禁忌を破り、きわめて地上的な罪を犯しては自滅していく。
 そういえば前回の日記で紹介した台湾映画『青春弑恋』には日本に憧れるコスプレ少女が出てきたけれど、魔法少女や戦闘美少女に扮装してもコスプレイヤーは異世界に転生できるわけではなく、コスプレ界隈という俗な世界から出ることは出来ない(まあそういう世界をこそ望んでるならいいのだが)(同作の彼女は「そういう世界」でも一流の日本デビューを夢みており現状に満足はしていなかったようだけど、無理に理で落としどころを見つけたいわけではないので省略します)。
 耕し、狩って、あるいは溶接や接客やパワーポイントやPDCAサイクル・なんなら「受け子」や首相秘書官で日々の糧を得る暮らしがあるかぎり、地上を超越的な世界に変えることは難しい。秘儀すらも超越を仄めかし予感させるに留まるのだよという『ヘマヘマ』の把握はシビアだし、もっと夢みたいなことを求めて臨んだら裏切られる作品でもあるだろう。けれどこれはこれで「そういうものだ」という寓意に満ちている。冒頭の「儀式を通して、お前(たち)は己が何物か知るだろう」という僧の言葉は、儀礼が伝えるメッセージによってではないけれど、たしかに実現されるのだ。
 24年後だろうか、再び描かれる「秘儀」の変わりようも「そこで終わるん?」という結末も衝撃的だ。そこに天国はない。けれど地上のカオスがすべて凝縮されている。

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 これは完全な余談だけどカイリー・ミノーグの「Padam Padam」、エディット・ピアフの同名シャンソンとは無関係なのだろうか。パダン・パダンという「過去から追ってくる音」を、若者を再び戦場に送ろうとする軍靴の足音になぞらえた短篇が80年代の石坂啓氏にあった(それで知った)。中曽根政権の頃を背景に日本の右傾化を危惧した氏の作品や、軍服コスプレの今で言うならインフルエンサーが登場する栗本薫の『ゲルニカ1984年』などは、むしろ2023年現在、説得力がある気がする。

小ネタ拾遺・五月(23.5.31)

(23.5.2/後日長文化したい/今日はサワリだけ)自分ごときがダリオ・アルジェント監督を語っていいのかなと思いますが、十年ぶりという新作ダークグラス(シネマ・ジャック&ベティ公式/上映終了/外部リンクが開きます)ずいぶん常識的になった分(いや人はバンバン死ぬのですが)人情ドラマに比重が置かれ、思いがけないプレゼントみたいな好篇(いや人はバンバン死ぬのですが)でした。特に、往年の代表作『サスペリア』で犬好きの人は悲しみ憤慨もしたと思うエピソード(※死にません)を、45年ぶりに汚名返上というか名誉回復というか、いやコレはコレでアレなんだけど…まあ今回も犬「は」死なないので大丈夫(?)。

(23.5.4/)水キムチ、はじめました。今年は続くといいですね。
タッパーで熟成中の水キムチ
※5/31現在、続いてます。週1ペースくらいで作ってる。

(23.5.9)横浜某所の食品サンプル。二つに仕切られた器の片方には天ぷらうどん・片方にはなめこそばで「なかよし」(きつねとたぬき、ではないんですね)。こんな呼びかたは検索しても他になし。このお店独自の命名か。
食品サンプル「なかよし」960円。右には豚肉なんばん760円

(23.5.11)自メモ。訃報。カナダ。
イアン・ハッキング(1936-2023)(論理学FAQのブログ/外部リンクが開きます)
「統計・確率論はいかに出現して広まり決定論に取って代わったか」「言語はなぜ哲学の問題になるのか」「数学はなぜ哲学の(同)」など、フーコーの手法で分析哲学を歴史化し、高い評価を受けてきた由。気になる。気になるが「(読む)自分は一人、著者たちは沢山」衆寡敵せずなんだなあ(一冊くらいは…?)

(23.5.13)「薔薇が薔薇の名を失くしても芳しい香りは変わらない」と仇敵モンタギューの子ロミオを愛したジュリエットは言う。けれど戯曲『ロミオとジュリエット』自体は家名という名=虚構が結局は現実を動かし支配するさまを冷徹に描き出す。偽りの=虚構の毒薬が現実の死をもたらすように。★川本真由子『ロミオとジュリエット』 : 言霊の支配する世界(大阪府立大学紀要/1991/外部リンク/PDFダウンロードへの案内ページが開きます)14ページの短い文章だけど、物語について・そして呼び名を含むフェイクが現実を侵蝕する現代について考えるヒントに。

(23.5.17)蜘蛛の糸で自分より下にいそうな者を蹴り落とそうとする以外に言いたいことも展望もない下衆が議員でございメディアでございインフルエンサーでございと瘴気を撒き散らすので、当分マスクは外せそうにない。とくに入管法をめぐる審議で毒に当てられ苦しんでるひとは(さいきん見つけた)奥歯コレクションでも屈指の傑作を見て心痛の慰めにしてほしい。
横浜の歯科の看板。奥歯の片側に頭を造形し、こっちを振り向いてるホッキョクグマに仕立てている。よくぞココまで。

(23.5.21)「プラントベースうなぎ」の開発に成功(日清食品/外部リンクが開きます)大変けっこうですし今夏の土用に間に合うようドアの外に出してほしいのですが、それはそれとしてカップヌードルのシンガポール風ラクサも7年と言わず年一回くらいのペースで再販してはいただけませんかねえ…(前にドンキで輸入物の袋麺ラクサを見かけたことがあったけど一瞬で消えてしまい二度と巡り逢えていない) ※あと関係ないけど渋谷の入管法改悪反対デモ参加・運営の皆様おつかれさまでした。わりと前の梯団だったので先にゴール→散開して駅に向かって歩きつつ、まだ進んでる後続グループに沿道から「いいぞいいぞー」と手を叩くの、悪くなかったです。

(23.5.24)横浜・六角橋商店街の古本屋「古書鉄塔書院」近隣に神奈川大のキャンパスを擁し、充実した品揃えでしたが、なんと閉店セール中。20%引きだったかなあ。気にしつつも今は物理的な本を増やせない状況で→「すまんーこういう客(元客)が閉店に追い込んだのよね…」と通過。あそこが閉まるなら行くぞという人はいると思うので一応お知らせ。自分もなんだかだ言いつつ行くかも。行けないかも。※追記:行けませんでした…(5/31)

(23.5.27)豆カレー、ルウじゃなくてカレー粉で全然イケるな?むしろシャバシャバ感が丁度いい。
カレー粉で仕上げた豆カレーライス

(23.5.31)表計算ソフトで家計簿。ここしばらく実態把握のため少し細かめに分類してるのだけど
表計算の抜粋図。「パン類×9」みたいに分類している(←もう少し買い控えたい)。スーパー「まいばすけっと」は「まいば」で記載。
 「スナック類(せんべいなど和も含む)」「甘い物(洋)」「甘い物(和・その他)」の何処に入れればいいのか分からない、やってくれるなあ「柿の種チョコ」。さて自分はどう分類したでしょうというのはクイズになるかな?
 ともあれ、今月は少し油断が過ぎたので来月(6月)は支出を絞っていきたいと思います。本当です。

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 ちなみに柿の種チョコの分類・正解は「甘い物(洋)」でした。チョコ味の柿の種か、柿の種味のチョコかと考えた時、自分の中では後者(チョコ)を求めて買ってるんだという意識が勝って、そうなれば自ずと…ですよね。でも同じ柿の種でも「梅ざらめ(甘い)」はまた迷いそう。

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