記事:2024年3月 ←2404  2402→  記事一覧  ホーム 

打ちのめされるようなすごいダンテ〜須賀敦子・藤谷道夫訳『神曲』(24.03.10)

 出藍の誉れと言うべきだろう。

 あるいは牛に引かれてと言うべきか。
 ダンテ・アリギエーリ神曲 地獄篇(第1歌〜第17歌)』(須賀敦子・藤谷道夫訳/注釈・解説:藤谷道夫/河出書房新社2018年/外部リンクが開きます)を手にしたのは、当然のように須賀敦子の名前に惹かれてのことだった。
 『ミラノ 霧の風景』に始まる名エッセイの数々と、キリスト教への信仰に裏打ちされた深い人間性。長く暮らしたイタリアをはじめとするヨーロッパ文化と文学への造詣の深さ。それぞれ別のところで書かれたものだが「選挙権を持つ者は社会の不平等を等閑にしてはならない」「信仰を持つ者がまず避けなければいけないのは、直ぐに社会の役に立たなければいけないという誘惑だ」という相反する言葉は、相反そのままに(自分の場合はとくに前者が)思考の錘として心に残っている。※両方とも今ここで通じやすく改変してるので注意。
 書影。『神曲』(左)と『ミラノ』(右)
98年の逝去から20年、『須賀敦子の本棚』という新シリーズで刊行された本書は地獄・煉獄・天国の全百歌にわたる『神曲』のうち地獄篇の前半のみ収録している。帰国したばかりの須賀(敬称略)が、イタリア語の初歩も覚束ない大学生の『神曲』読書会を指導することになり、その一人(藤谷)が研鑽よろしくダンテ研究を本業とするに至った。先立って須賀が自身の勉強のために残していた試訳を弟子が監修し、須賀の文体をなるべく残したまま学術的な精確さを期した。
 というわけで本書は実質的には、監修者である藤谷氏の脚注や解説を読む本ということになる。これが実はすごかった。最も精密な新しい邦訳として話題を巻いた、講談社学術文庫の原晶訳が2014年だから、18年刊行の本書はさらに新しい。最新だからというだけでもないだろう、今まで自分がおぼろげに読んできた『神曲』は何だったのかと(専ら己の迂闊さに)あきれるくらい鮮明なヴィジョンに打ちのめされた。

      *     *     *
 まず目のウロコを叩き落とすのは、『神曲』では仏教でいう「鬼」のような悪魔の獄卒が罪人たちをトゲのついた金棒(いや悪魔だと巨大なフォークか)で攻撃したり、血の池・針の山に追い立てたりはしないという指摘だ。
 ダンテの地獄では、人は生前の罪に応じた形で自ら進んで自らを罰する。蓄財に淫した者は汚物の詰まった無価値な球体(めっちゃ重い)をフンコロガシのように転がし続け、生前怒りに身を任せた者は死後も噛みつきあい互いの身体を引きちぎりあう。何とでも交換できる貨幣を至上の価値だと物神崇拝した「金の亡者」は本当の亡者になったとき自身が顔貌を失ない誰とでも取り替えのきくノッペラボウと化し、何も描かれていないノッペラボウの旗を追いかけまわす。
 そして咎人たちは、自身が無価値なものに追い立てられていると気づかない。「なぜなら人は生きてきたようにしか(死後も)生きられないからである」「悪魔の手間はかからない」このルールを知らされることで、今まで平板なスペクタクルに見えていた地獄の解像度が4K並みに跳ね上がる。他人事ではない、むしろ自分も地獄落ちの罪状にどっぷり浸っているという実感もだ。
 ダンテの世界観では浪費や大食も地獄行きの特急券となる。自分の財産を食いつぶした程度で地獄?そうではないと藤谷(敬称略)は解説する。神の前では「自分の財産」などというものはない。「あなたが独り占めしているのは飢えている人々のパンである」(アンブロシウス)「羊皮紙を緋色で染め、文字を書くのに金を溶かし、写本に宝石を鏤(ちりば)める。こうしてキリストは彼らの戸口の前で裸のまま亡くなっていくのです」(ヒエローニュムス)といった聖人たちの引用を前に、己の地獄落ちを確信して、うなだれずにいられようか。
 あるいは第七歌(123行〜)で藤谷が「鬱怒」と独自の訳語を案出した、怒りを義憤・公憤として表に吐き出さず内心に溜めこんだ罪(と、それに応じた沼底地獄)の身につまされようはどうだ。要は「不満たらたら」ということだろうが、日々感じつつ内に押さえこんだ「ムカつき」が「憤怒」と呼ぶに相応しいほど攻撃的で自身を苛み傷つけることを、吾々はよく知っているのではないか。
 「あなた地獄の刑期を少しでも軽くしたいと称して電車の座席とか譲るよう心がけてるよね一応」と水を向ける「ひつじちゃん」に「そこで他の譲らない乗客やマスクしない乗客なんかに鬱怒を燃やしてる時点で地獄の刑期マシマシってことです(あと高慢の罪ね)」と眉をハの字にする舞村さん(仮名)のイラスト。
 ちなみにこの「鬱怒」を集英社文庫の寿岳訳は「鬱々」河出文庫の平川訳は「心中に憤懣がもやもやとしている」と訳し、講談社学術文庫の原訳は「怠惰という霧」としたうえで「怠惰とする説、怒るべき時に怒らず鬱屈した感情を抱え続けたとする説、また怠惰でなく羨望とする説もある」と註をつけている。2014年の原訳が最も堅実な訳と称賛される所以だろうし、個人的には今ひとつ「ノレなかった」理由でもあるだろう。翻って藤谷解釈の(物議を呼びそうな)断定的な側面も察せられるというものだ。

 実際「ああも取れるし、こうも取れる」「解釈は各々の読者に委ねる」ではなく「こうだ」だと断定する藤谷のヴィジョンは単語レベルでなく、すでに見たように地獄観を、ひいては『神曲』全体を圧倒的な明晰さで一新する。
 たとえばダンテは現世フィレンツェでの政敵を地獄に落として苦しめている・『神曲』はザマアミロと溜飲を下げる娯楽巨篇だという俗説を、藤谷は厳密に斥ける。生前の罪が許されないと判断すれば恩師でも地獄に落とすし、義人と見ればイスラム教徒のサラディンをも辺獄から救い出すのがダンテだ(ちなみにイスラム教の開祖ムハンマド自身は地獄のかなり底のほうに居たと思う。まあ中世カトリックの考え方ではある)。
 多くの女性を有徳者と称揚しているのも当時としては画期的で、つまりは既成の権威を恐れぬ横紙破りだったという。口語=トスカーナ地方の方言を用いて書き、また当時は誰にも顧みられなかった古代の詩人ヴェルギリウスを積極的に再評価したダンテは確かに「文芸復興」ルネサンスの先駆者であった。
 その一方で、忘却の彼方から引き上げられ、地獄・煉獄の先導者として頼もしさを見せつけるヴェルギリウスもただ絶賛されてるわけではないのが(藤谷が読み解く)『神曲』の重要なポイントだ。キリスト生誕前に没したため洗礼の秘蹟に預かれなかった辺獄の住民ゆえ、天国に入ることは許されずベアトリーチェに先導役をバトンタッチするヴェルギリウス(ツンツンしてるベアトリーチェより萌え度が高い。ダンテのほっぺにチューしたりして読者の地獄行きの罪状を増やしている←個人の感想です)だが、
 キャプション「ヴェルギリウス様ちょっとハク様を彷彿とさせるよね(※個人の妄念です)」で、金髪に桂冠をかぶったハク様が「お食べ」と古代ローマのパンを差し出してるイラスト。
すでに地獄・煉獄の時点で、その理性一本槍の思考はたびたび限界を露呈していることが厳しく指摘される。古代ギリシャ・ローマ的な理性、の限界を超えてダンテを導くのは神の恩寵であり、ダンテ自身だ(と思われる)。(と思われる)と留保をつけたのは本書が地獄篇の途中で終わってしまっているからだが、藤谷のまなざす方向は明らかだ。
 ダンテの地獄巡りは他人事の物見遊山ではない。人々が罰せられている怯懦や鬱怒・高慢などの罪はダンテ自身が内包するものであり「このままでは地獄落ち確定」と案じた聖母マリアのはからいで始まった旅の中で、ダンテは怯懦の罪を思い知り(第三歌)、義憤を表に出し(第八歌)、高慢を改める(第十歌)。私見を挟めば、吾々の多くは様々な罪状を合わせ持っているはずで、どれかひとつの地獄に選ばれて永劫に閉じこめられるのは妙な話ではあった(その点、仏教の地獄は一つ刑期を終えたら次へと順繰りだった気がする)。『神曲』の要点は罪人が各々の地獄や煉獄に振り分けられることではなく、ダンテが己の罪を数えて洗い出し、改め、ついには師(ヴェルギリウス)をも超えて天国の恩寵に至ることだった。そしてそれはダンテひとりの話ではない。
 そもそも第一歌人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき(私は正しき道の失われた暗い森の中をさまよっていた)」という冒頭は「ダンテ35歳」のことだという通説も藤谷は誤りでしかないと一蹴する。別の箇所の記述でこの時のダンテは34歳だと知れるし、中世ヨーロッパに「人生70年」という表現もない。「ちょうど半ば」とは世界の寿命が13,000年とされていた当時、その中央(6,500年目)にあたる西暦1300年という意味だ。個人の年齢など知ったことではない、これは天文学≒当時の先端科学に古代ローマの文芸、ラテン語に俗語、社会情勢、つまりは創造された全てを網羅し綿密に配置して、全人類の救済を企図した(神がダンテに託した)宇宙規模のプロジェクトなのだという、これほど確信に満ちた『神曲』像は(たぶん)なかった。
 縁あって自身が選んだ研究対象に「人類史に折り返し点を刻みつける大事件」くらい絶大な価値や意義を見出せるのは幸福であり僥倖だろう。今まで『神曲』に親しんできた人は無視しえない新釈だと思うし、新しい読者は(地獄篇の前半のみとはいえ)本書から入るのが一番かも知れない。河出からは平川祐弘訳が文庫で出ているので別の版元が名乗りを上げる必要はあるだろうが+どんどん衰退していく出版界にそれを世に出す力があるか分からないが、藤谷氏による完訳が成し遂げられれば読書界を震撼させる「事件」になるはずだ…という俗な予言(?)はさておき。

 地獄に落ちたら出られない、煉獄の罪人は長い刑期を経て天国に行けるが、刑自体は生前の行ないで決められ死後には変えられない、というのも『神曲』の残酷なルールだ。たとえ来世があろうとも、人が心を改めるチャンスは生きてる今しかない、それがダンテの企図した全人類救済のプログラムだった。
 まして本サイトで何度が取り上げている「宗教や説話が説く来世は(地獄も極楽も黙示録も修羅道も)吾々の現在の姿に他ならない」という説(2020年4月の日記など参照)を代入したらどうか。死んで地獄に落ちるまでもなく、鬱怒の沼に沈んでゴボゴボ言ってるのも、金銭というノッペラボウの旗を追いかけて自らも使い捨てのノッペラボウと化しているのも、汚物にすぎない富や名声をゼエゼエ言いながら転がしているのも、現世の現在の吾々ではないか。無神論者よろしく来世を信じないなら尚更「やばい、このままじゃ死んだら地獄だ」ではなく「やばい、これが地獄か」とビビるべきなのだ。
 過食に苦しみ、課金に悲鳴をあげ、娯楽や息抜きだったはずの趣味やSNS・人によってはニコチンやアルコールが強迫観念と化して首を絞められる「快楽の地獄」中毒や耽溺の地獄ほど、『神曲』の亡者たちは現世の吾々なのだと痛感させるものはない。地獄篇の第五歌で「地獄に落ちても寄り添い続ける恋人同士」として愛されてきたパオロとフランチェスカの扱いは「なに言ってんだ、こいつらは地獄に落ちてるんだぞ」というルネ・ジラールの至極まっとうな指摘(21年1月の日記参照)を知って以来、自分の中でいわば『神曲』への理解度を測る試金石となっているのだが、もちろん藤谷氏はこの点でも遺漏はない。なぜこの二人が地獄に落ちたか、ジラールに劣らず冷徹な解説は各自で精読していただくとして、真の愛が(ダンテのベアトリーチェに対するそれのように)むしろ人を自由にする反面、執着する愛が(現世でも)ジラール言うところの「寄り添いながら相手の顔すら失認する」生き地獄と化すさまを、吾々はプルースト『失われた時を求めて』のスワンやシャルリュス・主人公の懊悩でイヤというほど確認してきたはずだ←いや皆様は僕の肩越しに。
 書影:神曲(原訳・地獄篇)と失われた時を求めて(逃げ去る女)。「まさかダンテとプルーストが、それもジラールを仲介にここで繋がるとはねえ…これだから読書はやめられない(←地獄?)」
 全ては神の計らいだから罪も更生のため用意された試練と思いなさいは良いとして、義なら来世で報われるのだから現世の不幸も甘受して赦しなさい(復讐は神がする)(カエサルのものはカエサルに)でいいのかという根本的な疑問は別の機会に考えよう。ダンテも怒りの声を正しく上げるのは良しとしているのだ。とはいえ―
 今なにげに重大な指摘をしたわけですが…?というキャプション。ひつじちゃんのイラストつきで。
 人の世の半ば・ダンテの壮大な全人類救済プランから、さらに700年。弱者は裸のまま戸口の外に放棄され、欺瞞と迫害は絶えることがない。ますます現世を地獄に塗りかえている吾々に、恩寵はあるのだろうか。

      *     *     *
 煉獄篇第十一歌に登場するシエナのサルヴァーニは高慢な野心家だったが、友人にかけられた(金貨一万枚の)法外な身代金を短い期限で工面できず、広場の地べたに粗衣で座りこみ恥辱に全身を震わせながら人々に支援を乞うた、その一事で地獄行きを免れたという。来世を信じられなくとも、現にこうして彼の名は生前の権勢ではなく人を救うためプライドを捨てたことで(のみ)後世に残っているし、死後を待つことなく現世のその瞬間まさに魂は救われていたのだろう―などと言うことは容易い。でもそれを他者の善行として「いいね」するのでなく自身が実践することが(駱駝が針の穴を通るより)難しいことも吾々は知っている。

      *     *     *
 吉行淳之介氏の恐怖対談シリーズで瀬戸内寂聴尼が楽しげに披露した説話によれば、仏教では女好きに特化した地獄があって、抜き身の剣がそそり立つ山の天辺の美女(の幻)を目指して罪人たちは率先して刃で吾が身を切り裂いてゆくのだそうな。ようやく美女のもとに辿りついたと思ったら幻は消えて、今度は山の(球形なのかな?)底に現れるので、また剣の山を飽かずに降りてゆく、その繰り返しが永劫に続く。ダンテの地獄に似てる気がする。たまりませんな。

君のように生きれたら(仮)〜『イシ』『気流の鳴る音』(24.03.24)

※今回とりあげる二書とも書かれた時代の関係で南北アメリカ大陸の先住民を「インディアン」、また『気流の鳴る音』では先住民を「原住民」と表記していますが、引用ではそのままとします。
      *     *     *
 ちょっと整理させてほしい。レヴィ=ストロースが『悲しき南回帰線』で文化人類学の先達として敬意を表していたのはアルフレッド・クローバー(夫)で、実際に接した夫が(娘のアーシュラ・K・ル=グウィンいわく)「辛くて」書けなかったイシの生涯をまとめたのがシオドラ・クローヴァー(妻)だったようです。今年1月の日記を訂正。
 というわけでイシ 北米最後の野生インディアン』(行方昭夫訳/岩波現代文庫/外部リンクが開きます)今は自宅に本を増やせる状態ではなく図書館で借りて済ませようかとも思っていたのですが、武蔵小山とお別れ(1月の次の日記参照)のタイミングに古本屋で出逢ってしまったので記念だーと購入(ダメダメ)。ありがとう武蔵小山と西小山。トンテキも美味しうございました。
 『イシ』と武蔵小山のトンテキ。カットされた状態で出てきました。
でも本棚に余裕あるひとは持つに足る、いま19ハタチくらいの人に推奨する基本図書100冊みたいのがあれば選定まちがいなし、古典の風格をもつ名著でした。もちろん何歳で読んでもいいし(現に自分がこの歳)今生で読めてよかった。

 1911年、カリフォルニアの田舎で保護された中年男性は副題にあるとおり「北米最後の野生インディアン(先住民族)」だった。自身の名前すら持たず、人間を意味する「イシ」の名で呼ばれた彼はカリフォルニア大学の設立まもない文化人類学科に迎えられ、中世も古代も飛びこえた農耕以前の石器時代と20世紀の文明社会・一身で二生を生きながら西欧人がもたらした結核の病ではかなくも世を去る。
 正直この本を読むべく運命づけられてる人は(僕などより先に)とっくに読んでそうで説明不要な気もするのだけど、滋味が細部に行き渡って噛めば噛むほど味わい深いが
 キャプション:木の棒を使ったイシの火起こしに感激した加大ウォーターマン先生が自分の学生に「君たちも火が起こせたら単位を認めよう。まずは私の実演を見なさい」と言ったはよいがイシみたいには火が起こせなくて単位要件化は(火だけに)立ち消えになった話、すごくいい…(ウォーターマンの似顔絵を添えて)
(個人的には加大の文化人類学科の設立にパトロンとして多大な貢献をしたのが新聞王ハースト…ではなくハースト夫人だったことが『市民ケーン』との対比で印象に残ったりもした。充実した生を生きられたらしい)
 彼の「発見」を描く導入部をのぞけば本書はシンプルに二分できる。カリフォルニアの先住民ヤナ族のあらましと彼ら彼女らが白人の侵略によって(イシひとりを残し)絶滅に至った過程を描く前半と、生きた標本として・それ以上の存在として西欧人たちの中で送った第二の短い生を活写する後半だ。
 言うまでもなく、この前半がつらい。序文でル=グウィンが「ナチによるユダヤ人大量殺戮に等しい」と書き、あるいはより端的にアメリカン・ホロコースト(昨年10月の日記参照)と名指される西欧からの侵略者による先住民族の撲滅は、とくにゴールドラッシュで抑制を失ない非道さを増した。驚かされるのは白人たちによる「戦利品」としての皮剥ぎの横行だ。白人たちを襲い頭皮を剥いだのは平地の先住民で、イシたち山岳地帯の住民に皮剥ぎの風習はなかった。もとより平地人たちの皮剥ぎも侵略者への報復であり、それ以前に彼らの世界観や宇宙観・伝統や宗教に基づく神聖な行為だったはずだ。それをパロディ化した醜悪さだけで、本書が告発する侵略者・植民者・あるいは先進的と自ら驕る近代人(とくに金銭に目が眩んだ者たち)の堕落ぶりは十分に代表されうるだろう。
 この堕落に対比されるように、まるで滅びた種族が自分たちの最良の資質を最後の一人に託したように、本書の後半で描かれるイシの肖像は高潔な善良さに満ちている。彼が属するヤヒ族の語彙ではgoodbyeを「君は残れ、私は行く」と表現したという。その言葉に相応しい、慎ましやかな含羞みを「残る」近代人たちに贈って彼は「行った」。残るのが私たちで良かったのか(あまり良くないのではないか)という苦味とともに。

      *     *     *
 ある程度(読書)年齢を重ねると、本は一冊で読むものではなくなるらしい。ある本を読めば他の本と関連づけられる。あるいは共鳴し、時には反発して補ないあう。同じ本を読んでも、読む側の履歴によって、得られる内容は時にまったく違ったものになりうる。
 次に読む本として、旅先の名古屋で手にしたのが真木悠介気流の鳴る音 交響するコミューン』(1977年→ちくま学芸文庫2003年/外部リンク)だったのは「引きが良かった」かも知れない。たまさか本屋でパラパラめくって目に入った人間主義(ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられうるというフレーズに惹かれてレジに運んだのだが、読んでみるとカルロス・カスタネダの要約を中心に(北米と中南米の違いこそあれ)『イシ』が語らなかったことを理論的に補完するような内容だった。
 書影。イシ(左)と気流の鳴る音(右)
 真木(敬称略)自身の「アメリカ・インディアンの中の文化的に最も遠い二部族の言語の相違は、中国語と英語の間より遠いという」彼ら彼女らをひとくくりにするのは「旧大陸人の偏見である」という釘差しを大急ぎで引用したうえで、はしょって述べるとカスタネダは70〜80年代に一世を風靡した異端の文化人類学者だ。メキシコ先住民の呪術師ドン・ファンに弟子入りした彼は様々な試験や試練・イニシエーションを経て、自分の中にこびりついた近代人としての偏見を粉々に突き崩されてゆく。
 あるいはなかなか偏見を捨てられない、と言ってもいいかも知れない。師ドン・ファンはカスタネダが近代人としての世界観に「耽溺」していると指摘し、その自覚を絶えず促すが、呪術師もまた呪術師の魔術的な世界観に「耽溺」しているだけだと言う。真の自由の道は、どちらの世界にも「耽溺」せず、醒めた感覚で間を進めというものだが、その道はその道で当然ながら孤独な隘路となる。耽溺は束縛で、吾々は…少なくとも僕は「世界の外に出る」ことを絶えず夢みてしまうけど、たとえば魔術や幻覚剤がもたらすような別世界は別の「耽溺」でしかない、そしてどこにも耽溺しない自由な道は逆に何処かに「耽溺」してはいけないのか・それが「根をもつこと」ではないのかと反問したくなる寂しい世界であるらしい。真木は著者としての力量で最終的に(なんとなく)安心できる足場を読者に与えてくれるけど、途中ちょっと途方に暮れる気分にもなった。それも含めて良い読書だったと思うのだけれど…

 一冊では自立し自足して見えた『イシ』の世界が、別の本と照らし合わせることで、また違う顔を見せたように思えた。顔と言うより語られない後ろ姿だろうか。
 『気流の鳴る音』は70年代後半という執筆時期から、カスタネダと並行して水俣の惨劇が少なからず参照される。アメリカ先住民の絶滅と同様、利益に目が眩んだ近代人が人間にたいして暴虐をはたらいた惨劇だ。チッソを訴えた被害者の一人は言ったという。「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。それでよか」(石牟礼道子『苦海浄土』)。こうした呪詛は、イシの中になかったのだろうか。
 あるいは真木は言う。「アメリカ原住民たちは白人が彼らを奪い、彼らを捕え、彼らを虐殺したことよりも以上に、白人による自然の破壊にたいして許すことのないいきどおりを抱いたという。それは(中略)彼らの生と死とを支える大地だったのだ。その解体は彼らの生を奪うだけでなく、その死をも奪ってしまった」(D・ブラウン『わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史』草思社の記述に基づく由)。こうした憤激は。
 白人社会に投降し、初めて学者たちと接したイシは(彼の言語での)数詞を教えてくれという問いに十までしか数えず「これで終わり」と答えた。学者たちは彼が十までしか「知らない」ことに驚き、それは彼が物心ついたときには一族が滅亡寸前の困窮状態で、十以上の人数も収穫も知らなかったからだと推定した。ところが後に大学で仕事を得て、給与として貯蓄したコインを彼は何十枚も数として数えることが出来た。「彼にとって数えるというのは、ビーズ、宝物、箱の中の矢筒の数(中略)一度に捕えた鮭など具体的なものを数えることを意味したのだ」。正しく質問しなければ正しい答えは得られない、フィールドワークの基本を失念していたことを学者たちは恥じたという。
 彼の出自を尊重し、人格に敬意を払う人々に囲まれ、穏やかな微笑みをたたえて短い第二の人生を送った彼にも、やはり奪われたことの痛みがあったのではないか―ただ、それを引き出す「正しい質問」がなかっただけで。
 ※いや、『イシ』にも彼の一族が受けた迫害について「それには答えたくない」と穏やかに拒絶するしかなかった「間違った質問」が彼に群がる人々から多々あったことも、やんわり書かれてはいるのだが。同書の前半を占める「皮剥ぎ」を含めた植民者の非道は、イシからの聞き取りではなく著者シオドーラ・クローバーが外部の資料≒皮を剥いでやったぜという奪う側の自慢などから丹念に再構成したものだ。
 それは逆に救いだったかも知れないと考えるのは傲慢だろうか。もし「正しく問われない」ことで痛み自体が彼の中ですら対象化されず、煮えたぎる「鬱怒」(前回の日記参照)ではなく、意識に上らない穏やかな寂寥で済んだのであれば。
 むしろ、奪われた者の苦悶や憤激を自覚しなければいけないのは、正しい質問を与えられぬまま穏やかに微笑んでいることが許されないのは、奪う側に立つ吾々だろう。あるいは、耽溺の外の孤独な道を知らなければならないのは、耽溺がもたらす害毒をまだ停められる段階にある(と信じる)吾々だろう。虐殺を、自然破壊を、吾々は正しく問い、正しく数えなければならない。
 シオドーラ・クローバーは責務を果たした。読む吾々もまた、晩年のイシのように穏やかに生きれたらと願う前に清算すべきことがある。←自分でも実行は容易くないことを書いているが、理念としてはそうなので、ここではそう結論づける。先に引いた「人間主義は人間を超える感覚によって…」とは、水俣で水銀禍の先触れとしてあった魚や猫の異変を正しく問い、正しく数えていれば、人間までの拡大は防げたという文脈の言葉だった。

      *     *     *
『イシ』を読み終えるタイミングで次の本で真木のカスタネダと水俣に出会えたのは「引きが良かった」のだろうけど、読んでる最中の名古屋でインディアンズ・ステーキハウス(公式/外部リンクが開きます)なる地元チェーンに出会ってしまったのは、いや平地と山地では「英国と中国くらい」違うけど、いやそれ以前にコンプライアンス的にどうなんだろうと思うけど、どうなんだろう…
 名古屋「インディアンズ・ステーキハウス」の外観と、頭に羽飾りをつけ腕を組んだ典型的「インディアン」に「インディアンうそつかない」のキャプションが添えられた看板。の写真。
ここで記述することすら何だか躊躇われる「インディアンうそつかない」という文言、かつて存在したことさえ忘れていたぞ…(お手ごろなランチがあったけど昼食は近場の別のところで食べました。その話は来週以降)

名古屋カルチャーは死なず〜春の18きっぷ旅行2024(前)(24.3.30)

 それまで存在すら知らなかった本を夢のなかで読んで「こういう本があったんだ」と目が醒めてから実際に読んでみるという稀有な体験をした。
 黎明期のコンピュータ開発のパイオニアで、プログラミング言語COBOLの開発者としても知られる(昭和ごろにはCOBOLのおばちゃまと呼ばれていた。モアベターよ!)グレース・ホッパーの伝記。夢の中では四六版・活字のしっかりした和書だったけれど、現実世界だと日本語で読めるのは児童書の絵本のみ。でも良書でした:
ローリー・ウォルマーク文/ケイティ・ウーグレース・ホッパー プログラミングの女王(長友恵子訳・岩崎書店/2019/外部リンクが開きます)
シリーズ「世界をみちびいた知られざる女性たち」の一冊。
 その界隈(人生訓・名言界隈)では「許可を得るより、まずやってみて失敗したら謝るほうが簡単じゃね?」で名高いらしい彼女のチャレンジ人生は、子どもの頃に時計を分解して組み立て直しても動かず「なんで動かないんだろう→もういちど分解からやってみよう」と家にあった時計7つを分解して、ついに自力で時計の仕組みを会得した「成功」体験に始まる。真空管時代のコンピュータの回路に羽虫が挟まってるのを発見して「これが本当のバグ(バグという言葉は以前からあった)」という逸話も有名だけど、どれくらい彼女が偉大だったかはフラッシュバックで描かれた冒頭のエピソードに詳らかだ。本当に初期のコンピュータで二進法だか16進法だかのプログラムを書いていたとき「何度も同じ計算をするなら、毎回そのコードを書くんじゃなくて、コードをひとまとめのコマンドにして、それを毎回呼び出せばいい」と気づいたのだ。
 それまで0110111100101110とか0A 21 34 FFとかだったコードをADD(加算)とかINPUT(入力)といった自然言語(に近いもの)で記述できるようにしたのも彼女だという。何の話か。人間の言語の世界でも、吾々は「毎回はじめから一行一行プログラムを書かなくても、一連のコードを一語で呼び出せるコマンド」を使い回して生きている。「彼は他人にも自分にも厳しくて怖い人だと思っていたけれど、そんな彼でも誰かの苦境を哀れんで優しい気持ちを表出することがあるんだなあ」という長いコードの代わりに吾々は「鬼の目にも涙」という言葉を使うことができる。目の前で起きていることを理解するのにも「あ、これは『鬼の目にも涙』だ」「出たな『永田町の論理』め」と(長いプログラムを集約した)ショートカットを呼び出すことで、一から考えることをショートカットできる。そのフレーズを知らなければ、思いあたりも思いつきもしなかったことを感じたりもするのだ。

      *     *     *
 というわけで「漂泊の思いやまず」また18きっぷで漂泊してきました(なんつう迂遠なマクラだ)。
 「大阪の味」串かつ屋と横浜家系ラーメンが並ぶ名古屋(千種)の写真と、日の出らーめん(名古屋)の店頭写真。
まずは名古屋。大阪発祥を謳う串かつ屋と横浜家系ラーメンが、あまりに良い並びで笑ってしまったけど名古屋。いや、名古屋の人だって毎日きしめんでは苦しかろう。本家の横浜・日ノ出町からは撤退してしまった日の出らーめん(神奈川県内にはまだ残ってる)がなぜか複数店舗、生き残ってるのも名古屋。
 JR線を主体にした名古屋めぐりの地図。
 パンクロックの聖地でコロナ禍以降「今池ハードコアは死なず」のキャッチフレーズで盛り上げている今池。ライブハウスに通ったりはしなかったけれど、同人誌の即売会目当てで名古屋に足を運ぶようになって以来、なんだか好きな区画のひとつだった気がする。「台湾ラーメン」味仙の本店をはじめとする飲食店、ミニシアター、銭湯にスーパー銭湯、それに書店、などなど。
 ガガステーキのレアポークステーキと、店の外観
味仙本店は夕方からの営業、先週の日記で書いた「うそつかない」ステーキハウスも気になったけど、もっと気になった「レアポークステーキ」を昼食に。生肉(危険)ではなく真空低温調理で「究極に柔らかい肉塊」「豚肉の常識が変わる」と謳う品なので、なるたけゴツい肉塊を注文して感激するのが良いのかも。いちばん薄め(といっても分厚い)のテキは値段も手ごろ、流行るといいですね。
 二書店で買った本4冊の書影。左から真木悠介『気流の鳴る音』、HAPAXII-1、ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』、ミルチア・エリアーデ『世界宗教史1』。名古屋名物・青柳の「かえるまんじゅう」を配して。
 新刊の人文書を取り扱うウニタ書房、本が好き+今の社会に考えるところがある人はかなり惹かれる本屋だと思います。お店でもらったビニール袋、読む者を未知の世界に連れ去るようなUFOの図案にOnly the book opens the future(未来を切り開けるのは本だけ)のロゴが素敵。
 左:ウニタ書房の袋。三角形に図案化されたUFOが牽引ビームを出してる図案に「Business Sports Amusement Philosophy Project Creation Information」「The World of book」「Only the book opens the future」のロゴ。右:シマウマ書房の茶色い紙袋。店名の横に添えられたシマウマのスタンプと、袋をとめるシマウマ柄のテープ。
シンプルな茶の紙袋をとめるテープが白黒ゼブラ柄なのもチャーミングなシマウマ書房、19世紀ポルノ小説の古典(未読)の名前に乗っかった『ファーニー・ヒルの娘』どんなインチキかと思ったら原著者クレランドによる正統な続編らしい。『ファーニー・ヒル』の発禁処分で打ちのめされたクレランドが再起を賭けた遺作とか何とか。自分は手を出さなかったので、運が良ければまだ文庫の棚に残ってるかも知れません。クンデラとエリアーデを買いました。

 18きっぷがあるので今池から徒歩で千種に戻って、鶴舞から大須まで歩けばいいかなと思ったら意外に長かった1500メートル。味噌かつの本店がある矢場町から上前津あたりまでは昔ながらの古本屋が並ぶ通りだけれど、鶴舞→上前津に至る通りにも古書店がちらほら。今池の二店が今回は好すぎておなかいっぱいでスルーしましたが関心のある人は名古屋で古本、イケるかも知れません。
 左:大須商店街。招き猫像のあたり。右:新雀本店のみたらし団子。
大須商店街。新雀本店の甘くないみたらし団子、コロナ禍・不景気でも健在で何より…と思ったら
 三画像、左から:アーケードの天井。天井から下がった「大須演芸場」の案内。入口外観。演目の掲示。
ありゃ。10年前(2014年)に畳まれた大須演芸場が復活してる。前にあった頃には快楽亭ブラックの落語を観たりしたなあ。話を地理的に少し戻すと、今池で惜しまれつつ閉館した名古屋シネマテーク(入ったことはない)も同じ敷地でナゴヤキネマ・ノイ(外部リンク)として復活したようだし「名古屋カルチャーは死なず」は伊達じゃないのかも。

 あいにく演芸場は開いてなかったので、大須の一発ネタを御笑納ください。いやコレをネタと解釈してしまう心が汚れているのだが…
 「大須の溜まりBAR」CHARAの店頭のぼり「食えよ、俺のフランク」
 大須から高速道をくぐる幅広の大通りをわたって(何度か言及してるけど21年2月の日記で取り上げた矢部史郎『夢みる名古屋』の指摘どおり一度で渡りきれない幅。どうせなら待たされる中間にチュロスの屋台でも出せばいいのに)
 左:たしかに長いよね…と距離を示す矢印つきの若宮大通。右:名古屋市科学館の外観
即売会で地元のかたから前にオススメいただいていた名古屋市科学館(外部リンク)コロナ禍以降、即売会から事実上引退した今になってようやく訪れることができました。目玉のプラネタリウムは調整中で入れなかったけど、なるほど面白い。
 というのも展示のほとんどが体験型のアトラクション(?)で、たとえば発電ひとつ取っても運動エネルギーが電気に変わる→ハンドルを回して発電してみよう!で普通の科博は終わりそうなところを、次は位置エネルギーが電気に変わる→錘を持ち上げ落として発電してみよう!(他にも発電だけで何種類かあった)と、すこぶる盛り沢山。校外学習らしき中学生ズはもちろん、若いカップルも意外に多かったのも頷ける。二人とか多人数でワイワイするのが良い施設だと思います。
 遠心力による潮汐を体験してみよう!ハンドルでプレートをグルグル回すと、回転する薄い水槽の中・平らに沈んでいた沈殿物が中央が凹んで両端が盛り上がる。地味に面白い!
目を疑う「内臓パズル」があるとゆうことは
 内臓パズル。目を閉じた人体模型の腹部が開かれ、内臓パーツが「入れてみよう」と言わんばかりに並んでいる
当然のように展示室の反対側には「骨パズル」が。ははは。
 骨パズル。

      *     *     *
 名古屋駅前の一日中「モーニング」をやってる・コーヒーに小倉トーストがついてくる(それはもう「小倉トーストにコーヒーがついてくるセット」で良いのでは)喫茶店が行ってみたら○イーツパラダイスと☆野珈琲店(微妙に伏せ字になってない)になっていた、あんまりだ!と思ったら通りを一本まちがえただけで小倉トーストのお店も健在だったのは御愛嬌。
 スイパラと星野珈琲店。
冒頭で名古屋なのに串かつ・家系ラーメンとあきれてみせたけど、どこかの土地の食べ物が肩書きを保ったまま他所の土地に根づき広まるのは悪いことではないのでしょう。かく言う自分も今回の名古屋で食べそびれた味噌かつは岐阜で、台湾ラーメンとシロノワールはそれぞれ東京と横浜でいただいたのでした。
 左から東京(神田)の台湾ラーメン・岐阜の味噌かつ・横浜のシロノワール。神田味仙の台湾ラーメン、今池本店とも大須店とも微妙に違って面白い…
 岐阜、それから京都の話は後篇で。

抹茶パフェが消えた日〜春の18きっぷ旅行2024(後)(24.3.31)

 ここ数年、奥歯を図案化または立体オブジェ化した歯科の看板ばかり見てきたせいで(奥歯じゃなくて)「歯」という字の図案化に「これは新しい」と思ってしまい、吾ながら少し冷静を失なってるなと。下に「大阪下町焼」とあるけど名古屋です。
 「健康は、歯から口から笑顔から」と銘打ち、歯という字の中が米じゃなくて笑顔になってる歯医者の看板。下に「大阪下町焼」の別看板。
 ちなみに↓コレは地元ヨコハマで採取。よく見ると「歯」という字の頭に奥歯が。
 歯という字の上の「止」の左の縦棒が奥歯の形になっている歯科の看板。

      *     *     *
 今回の18きっぷ旅行では名古屋から快速で30分の岐阜(岐阜市。県庁所在地)に宿を取ったのですが、宿の共同のシャワー室ではなく歩いて3分の銭湯へ。
 岐阜・天然温泉「のはら湯」の外観。
湯上がりにプハーと地元の瓶牛乳を飲んだら、銘柄がたなはし牛乳(公式/外部リンクが開きます)。どう見ても岐阜・駅前に黄金色の信長像がある「岐穂市」を舞台にした宮原るりさんのギャグ四コマ『みそララ!』『恋愛ラボ』にメガネの棚橋兄妹という濃ゆいキャラが出てくるのだけど(宮原キャラに濃ゆくない人が居たか?と言えば居なかった気もしますが)なるほど地元愛のこもったネーミングだったのかと知れたのも遠出して現地を訪ねる面白さ。
 前回も拾った『夢みる名古屋』(21年2月の日記参照)で名古屋より好いと著者の絶賛が気になっていた岐阜。今回は宿泊地としてのみの滞在で満喫とは行かなかったけど、駅直結の呑み屋通りに面白さ・味わいやすさの片鱗をうかがえたかも。当方下戸なのですが、呑んべだったら・それも皆でワイワイ騒げばええやん(あ、自分が一番苦手なタイプのノリだ…)みたいな集団だったら楽しいだろうなと想像できるオープンな感じ。言いがかりかも知れませんが。
 今年1月の金沢旅行で事前に調べて色々訪ねた中、時間が合わなくて(あと風雨が凄かったからね…あの氷雨の中に被災地の方々も支援に駆けつけた各地の消防や自衛隊の方々も居たことを忘れてはいけないよ)入りそびれた「21時にアイス」という店、岐阜にもあったので足を延ばしてみたのだけど―
 あ、うん、実は金沢店の前を開店時間前に通った時も周囲が歓楽の飲み屋街みたいな感じで察してはいたんだけど、自分などが簡単に入れるタイプのお店ではなかった…遊び上手な大学生男女なんかが集まる感じでした…
 左:岐阜の地図「21時にアイス」右:名古屋(栄)の地図「25
時までアイス」
ちなみに名古屋・栄の歓楽的飲み屋街には「25時までアイス」という店もあった模様(近くまでは行きました)。30歳若かったら、こういう処に入り浸る人生もあったかも知れませんが、ははは。んにゃ、自分が生まれた年代も、ハードコアな今池で本屋をハシゴしてホクホクしてる人生も取り替えたいとは(あまり)思わないけど。

      *     *     *
 はい、翌日の京都も「とりあえず一乗寺に人気の本屋があるから行ってみよっか」と歩いてきました。最初は京都駅周辺で一度くらいタワーに登ってみよう・水族館に行ってみようか・上洛のたびに毎回毎回「近場だからすぐ行ける」行きそびれてる三十三間堂を拝観しようかなど事前には思いつつ、結局は本屋に向かって鴨川沿いを延々歩く。そういう人生。
 鴨川沿いを北へ南へ
こんなの京都じゃなくても良かったじゃんと思いもしたけど、まあ1月の金沢では犀川沿いも浅野川沿いも歩きそびれたからね…
 そして「多恋人(たれんと)」とか「来夢来夢(らいむらいと)」とかいう店名を「しょーもなっ」と思いつつ嬉々としてコレクションしてる人生。それに答えてくれる京都。大蔵人(オークランド)もCUT-B(かっとび)も、ごめんちょっと分からない(多恋人なら分かるかと言えば分からないが)…CUT-Bはカッ飛んだ髪の連想からか、ちょっとBUCK-TICK(バクチク)を彷彿とさせますね←いちおう謝っとこう、すみません…
店の看板。左:バー「大蔵人(oak-land)」右:理髪店「CUT-B(かっとび)」

 一乗寺に行ったのは初めてかも。宮原るりさんが岐穂もとい岐阜の地元牛乳をキャラ名にしたように、京都が地元(なんだよね?)の麻生みこと氏のデビュー長篇『天然素材で行こう』は登場人物の姓が京都の地名由来で、とくに濃ゆかったのが一乗寺クンだったなあ。京都を舞台にした今のまんが絹田村子数字であそぼ。』でも出てきたように地元の大学生にとってはラーメンの激戦区らしい…と思い出したのは現地で店々の前にできた行列を見てから。行列は苦手なのと(数学でも現実でも←あ、上手くない?ちょっと上手くない?)考えなしに先におなかいっぱいになってたのでラーメン屋はスルー。
 んー、実は本屋も軽くスルー。前日の今池が良すぎて、こちらもおなかいっぱいでした。京都の独立系書店のはしりで、イギリスのガーディアン紙が世界の美しい本屋ベストテンに選んだ処なんですけどね。今ほど社会派でなかった15年前の自分だったら夢中になったかも。本屋も御縁なのだ。

 本を買ったのは出町でした。つまり復路も鴨川沿いを延々歩いて一乗寺から出町経由で三条まで。
 ところで三条あたりの街路で見かけたコレ、何処かで見たような気がするんだけど何でしたっけ?
 タイル貼りの壁に並んだ謎のパーツ。人の身長くらいの高さで上にV字型の金具(先端が引っかけるようCの字型になっている)・下に輪っか。
知ってるよアレじゃん、というかた(出来れば)拍手で御教示いただけると嬉しいです。
 

 そんで出町。京都アニメーション『たまこまーけっと』のモデルになったアーケードの商店街なのですが:
 また話は脱線する。前に東京の大久保でダルバートを食べてた時のこと。ネパール料理店ということでインドカレーのお店ふうのインドっぽい歌謡曲が店内BGMで流れていたのですが、3時間くらいあるボリウッド映画で流れてそうな音楽が不意に途切れて「保険料が戻ってくる○○社の生命保険…」と日本語のCMが割り込んできた。どゆこと?ああいう音楽、テープじゃなくて有線放送か何かを契約してるのだろうか。で、そうしたチャンネルがインド歌謡曲の間に日本語のCMを入れることにしたとか?だとしたらスマン!日本の資本主義がスマン!と(スクティをモグモグしつつ)いたたまれない気持ちになったのだけど
 何の話か。出町商店街のアーケードには以前からありがとう」「今日も元気だという看板がかかっているのだけど、久しぶりに訪ねた三月。前に訪ねたのは五月だったので、実は前からこの時期にはかかってたのかも知れませんが
 出町商店街のアーケード。2018年5月には「今日も元気だ」だった看板の下に24年3月は同じ大きさで「e-taxで申告だ」の看板が下がってる。
おのれ!おのれ徴税国家!
 …出町商店街は大通り沿いのお餅屋が行列の人気なのだけど、別のお店で桜餅セット、中国茶の茶器・すぐき・古本屋で白水社版シェイクスピアの『リア王』を買いました。すぐきとシェイクスピアが並んで緑とクリーム色の京都カラーなの、ちょっと良きでしょ?
 左:リア王。右:すぐき。
三条まで歩いたのは昔からあるブックオフと「京はやしや」の抹茶パフェ目当てだったのだけど、後者は見つからず。前日の小倉トーストの件もあるから自分の見落としかとも思ったけど、やっぱり閉店してたみたい。二年前から京都に住んでる甥っ子にも奨めていたのでショック。行けたかしら。
店舗案内・京はやしや(外部リンクが開きます)
ヨコハマの「日の出らーめん」が日ノ出町(横浜)からは撤退して、なぜか名古屋で複数店が栄えてる話をしたけど、なんとこちらは香港や横浜まで店舗を広げながら京都からは消えてしまったらしい。んー、今回は名古屋で食べそびれた台湾ラーメンやシロノワールを戻ってきてから食べて「ここまでが遠足です」と思ってたけど、横浜の京はやし屋で来週の誕生日にでも食べるか抹茶パフェ。

 おまけ。豊橋(駅構内)のおにぎりセットと、浜松のキーマカレー。
 左:おにぎりセット。左からツナ・梅干・昆布にお味噌汁で500円。右:浜松「カルダモン」のキーマカレー。名前のとおり紅いカルダモンが散らされている。
 ここ数年、夏の18きっぷ旅行は戸外が暑すぎ・むしろ「熱い」レベルで無理がすぎると痛感しており、春のうちにと彷徨ってきた次第。あまりアレを見なきゃココに行かなきゃとガッつかず、遠くに行ってフラフラするだけのスカスカな旅行でいいやと思って行ってきたのですが、こうして記事にまとめると充実して見えるのが面白いですね。
 切符はもう一日ぶん残っているけど、あまり無理せず済ませるつもりです。

小ネタ拾遺・24年3月(24.04.01)

(24.3.2)3月2日はルー・リードの誕生日。今年はスゴい「歌ってみた」が来た:
Keith RichardsI'm Waiting For The Man(公式/Youtube/外部リンクが開きます)
「俺にとってルーはピカイチだったね。マジもんだよ!アメリカの、いや全ての音楽にとって重要だ。奴と奴の犬がいなくて淋しいよ」
犬?それってまさかdogと同じD始まりの…(それ以上いけない)

(24.3.6)いろいろ紙の本を読むのと並行して、スキマ時間にスマホで電書版をちまちま進めてたジュリア・セラーノウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』(サウザンブックス/外部リンクが開きます)ようやく読了。社会的な不平等(貧困や被暴力)への怒りに満ちたショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』(23年2月の日記参照。あちらも重要)とはまた違った内省的(?)アプローチで、シスジェンダーでも男性でも自分自身の・あるいは自分以外の属性の人も含め、人にとってジェンダーやセクシュアリティって何だろう・どうすれば自身の性で自身をエンパワーメントできるのだろうと改めて自問するヒントをくれる好い本でした。すごく局所的なことを言うと作家および作家志望・とくに百合やらBLやらあるいは異性愛でも知的に感情的により満足した作品を手がけたいと思ってる人には、すぐ応用できる即効性ではなくジワジワ発想の体幹に効く柔軟さを期待できる本でもあると思います。次に読む本に迷ってるひとは是非。

(24.3.8)さいきん初めて知ったんだけどヨ・ラ・テンゴがカヴァーした
Friday I'm in Love(公式/Youtube/外部)のMV。
Wednesday Thursday "HEART ATTACK"って、そういう意味じゃないから!!(heart attackは心臓発作。為念。あとなにげに製作費すごそうだよね…)ダイナソーJrがカヴァーした「Just Like Heaven」でも思ったけど、アメリカのインディーズ・オルタナ勢が(イギリスの)ザ・キュアーをリスペクトしてるのが伝わってきて心温まる一方で、あんたらザ・キュアーを何だと思ってるんだという気持ちも無くはない。
Dinosaur Jr. - Just Like Heaven (Live on KEXP)(YouTube/KEXP公式/外部)
(まあ本家のザ・キュアーもたいがいアレだよねというのは措く…ともあれ皆様LovelyなFridayを)

(24.03.13)久しぶりにアガンベン『創造とアナーキー』(先月の日記参照)を読み直してたら「誤った趣味が露わにしているのは、〜できる能力の水準における欠如というよりも、〜しないでいられる能力の水準における欠如である」
 『創造とアナーキー』書影。この本は図書館で借りて済ませたんだよねと思ってたら実は持っていた
センスのないひとは、何かするのを控えておくことができない。センスの欠如とは、つねに〜しないではいられないことなのであるという箴言に出くわし、むせび泣いている。畜生ためになるぜ(最近かかりきりの原稿に「もうちょっとこのへん詳しく」と8ページ加筆を決めたばかり…)

(24.3.17)中国茶などを少しずつ飲む用の茶器、丁寧でない生活がたたって落としたり何だりで欠けが目立ってきたので替えを探していたのですが…(いやメイドインチャイナで500円くらいの廉価品なんですけど)なぜか出町で落手しました。京都の。前後の事情は来週というか
 新旧チャイナ茶器。旧は縁に欠けがちらほら。側面から見ると新しいほうがだいぶポッタリしてるけど、まあ慣れるでしょう。
18きっぷで毎日7時間くらい電車に乗って、三日で50kmくらい歩いて(娯楽や息抜きが強迫観念になったら現世が地獄って先週の日記で書いてたよね?)流石にへとへと。

(24.3.19)今の上皇つまり先代の天皇誕生日が代替わりで直ぐに休みでなくなったのに昭和天皇の誕生日は祝日として残り続けてるの、制度的な理由(エクスキューズ)もあるんだろうけど、端的な話この国のマジョリティが見たい夢の正体が隠れてる(隠しきれてない)のではと思いつくなど。ルル説明するのも面倒なので各自で勘ぐってください。

(24.3.20)西洋音楽史の学年末テストで単位を落としそうな生徒のためのサービス問題「この中で自身のバンドに専念するため直ぐ脱退した助っ人メンバーは誰でしょう」
 (ヒント・髪)まで書き添えずにいられない、先生は心配性。
 
ちなみに正解は↓このひと=プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーさんなんだけど、あーこれは(髪質だけじゃなく)音楽性も合わんわというか、自分のバンドだと別人のように楽しそうですね…
 Primal Scream - Jailbird (Official Video)(YouTube外部リンクが開きます)

(24.3.22)また地中海を中断、縁あってミルチア・エリアーデ『世界宗教史』(ちくま文庫/とりあえずI巻だけ)に寄り道中なのだけど
バビロニア語のもっとも美しい祈りのひとつは、ありとあらゆる神々に、祈願者がその名を知らないことを謙虚に認める神々にさえ向けられている。「(中略)おお、存じあげぬ神様、私の罪は甚大です!……おお、存じあげぬ女神様、私の罪は甚大です!(略)見捨てないでください!(強調は舞村。以下も)エリアーデ大先生、よく笑わずに書けるな…いや笑ってらしたかも知れんが…
 書影。地中海IIIの上に乗った世界宗教史I(文庫)。キャプション:いや確かに3/10のダンテの回で高慢を捨てた謙遜が救いの道だと書きましたけどな?でも案外これが源流だったりして…
※ちょっと言葉足らずだったので補うと(神々は人の願いをかなえてなんぼ的な取引意識とは対極な)ヨブ記からダンテ・20世紀のバルトまで一貫してる「神の偉大に拮抗しようとする(した)だけでおこがましい」という圧倒的な屈従意識や生きてるだけで罪深い的な罪悪感の源流かもなと思ったのです。
ちなみに地中海で「そんなん笑うが」と思ったのは「地中海は、イスラム教徒の土地でさえも、ぶどうの木とワインの国である。イスラムの詩人以上にワインをほめたたえた人がいるだろうか
そしていわゆる地中海性気候について書いた
初期のオリエント的な画家たちはぴかぴか光る色調で我々をいつもだましてきた。一八六九年十月、フロマンタンは、メッシーナから船で遠ざかりながら、まさに次のように記している。「雲におおわれた空、寒い風、にわか雨、天幕に雨滴が落ちる。物悲しく、まるでバルト海だ
あはははは。読書は(も)楽しいぞ。

      *     *     *
「俺は君たちが想像を絶するものを色々見てきた オリオンのそばで焔に包まれていた宇宙船 タンホイザー・ゲートの闇の中で輝いていたオーロラ あの目眩く瞬間もいずれは消える 時が来れば涙のように 雨のように」(日曜洋画劇場・吹替版に基づく)
ロイ・バッティ(-2016)
ルトガー・ハウアー(-2019)
寺田農(-2024) さよなら、また別の星で逢いましょう。(24.3.23)
※追記:宮崎駿監督はブレードランナーの吹替をテレビで観て、寺田氏にムスカをオファーしたそうですよ…


(24.3.24/すぐ消す/月末に拾う)YouTubeで目当ての動画の前後に入る広告、まあそれは仕方ないのだけど、世界的大企業コカコーラのWeb限定らしきCM
オツカレタイムに贅沢ミルクコーヒー| ジョージア(コカコーラ公式/外部リンクが開きます)
「一度見たら忘れられない独特な動き」「癖になる歌とダンス」などと業界ニュースサイトに書かせているけど、端的に十年くらい前の中小企業・赤城乳業 BLACK TV-CM(YouTube/外部リンク)のアイデア再利用(無断)(a.k.aパ○リ)だよね?とゲンナリした直後、
入ってきた二本目の広告が「富士○のパソコンは神!ジャパンクオリティさすが!と外国人親子に言わせるCM」(YouTube/外部)。逆の意味でジャパンクオリティさすが…と(とうに知ってたけど)落胆の連打でした。

(24.3.25追記)前者についてはエリアーデ『世界宗教史1』の昨日ちょうど読んでた箇所にも「古代エジプトのラムセス三世は墓の壁に己の事跡として先代ラムセス二世が征服した都市名を刻み込んだ」とあったので人類の臆面のなさは四千年前から変わらんようですが…

(24.3.26)CMのパクリは容認しがたいのに音楽だと「そう来たか!」「よくぞソコから持ってきた!」と喜んじゃう違い、説明が難しいのですが(芸をパクるのと、パクリが芸になってるの違い…んー、やっぱ分かりにくいか)
Lady Gaga - Bad Romance(公式/Youtube/外部リンク)
おっ○い花火に気を取られて(←語弊)15年ほど気づかなかったけど、絶対に何処かで聴いたことあると思ったら、あって当然だよコレでした→
Electric Light Orchestra - Don't Bring Me Down(YouTube/公式/外部リンク)
←そう言われて観ると冒頭のしょうもない2コマアニメ(ネオン)も、ガガ様の踊りと見比べてしまうな…(しまうな)ガガ様&バックダンサーズの踊りは4:15〜の足踏みダンスが白眉だと思います。

(24.3.27)Bad RomanceのMV、いろんな解釈があるんだろうけど「私は芸を売るけれど私そのものまで買えると思うなよ(火だるまにすんぞ)」と額面どおりに受け取ってしまったのは、立体オブジェみたくクルクル回され最高値で落札されるガガが、異形に過激に転生したかのように「傷物の中古品として私をサザビーで買い叩いた好事家気取り、てめえのペ○スでも咥えてろ」と四つの瞳で歌い上げたメラニー・マルティネスのせいかも知れない。昨年聴いてグッときた歌のひとつ。
【和訳】NYMPHOLOGY - Melanie Martinez(ロンリーハーツクラブ/外部リンク)
Bad Romanceの映像(歌詞はそんなに大したことない)とNYMPHOLOGYの歌詞の間に、レプリカントやヴァーチャル彼女が都合よい傷物として買い叩かれる『ブレードランナー2049』を挟んで、並べてみたくなる。どちらかと言うまでもなくガガ様に黒焦げにされる立場の者ですが、一応そういう立場だよな自分という自覚はあるのです。ヴィルヌーヴ(ブレラン2049)の監督には自覚、あるのかしら…

 本サイトで何度も何度も再確認した「私たちには私的な苦痛を(鬱怒でなく)公的なイシューに変える言葉が足りてない」という『目が眩んだ者たちの国家』(18年12月の日記参照)の指摘は政治の言葉について語ったものだけど―詩歌にも同じ「公共の言葉を与える」役割は期待されているのではないか。僕たちの、あなたの周りにある歌は今、その火急かも知れない要請に応えているだろうか。なんてことを思った三月でした。また来月。

 

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2404  2402→  記事一覧  ホーム