記事:2024年2月 ←2403  2401→  記事一覧  ホーム 

WE ARE NOT ALONE〜コン・ダーシャン監督『宇宙探索編集部』(24.2.3)

 WE ARE NOT ALONE(宇宙にいるのは吾々だけではない)は、いわゆるUFO・空飛ぶ円盤・異星人とのファースト・コンタクトを描いたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』のキャッチフレーズだった。1977年。ピンクレディーの「UFO」は翌78年のヒット曲だが、同名の日清カップ焼きそばは76年の発売。ちなみにアニメ『UFOロボ・グレンダイザー』は77年放映開始だがパイロット版は75年制作らしく(Wikipedia調べ)ははは、掘り起こせばキリがない。
 「1976年の『UFO戦士ダイアポロン』はUFOと(なぜか)アメフトがモチーフで、主人公がアメフト風ロボで戦ってる間、仲間たちはUFOから支援するみたいな話だった気がしますが、ほら話すとキリがない」というキャプションに「操縦じゃなく主人公がロボと合体・巨大化してロボと内側から一体化して戦う異色作でした」という図解。ダイアポロン、頭部の前面についたヘッドプロテクターがアメリカン。
フィンガーファイブの「恋のアメリカンフットボール」が1974年だからUFOと一緒に(一緒でもないだろうが)アメフトもブームだったのかも知れないけど、だから話を広げるなと言っておるのだ。要するにスピルバーグの映画もUFOというネタ自体、ALONEではなかった。

 ギリシャの太陽神はアポロではありません(←この台詞の直後、救急車で搬送)
 漢字で書くと孔大山、孔子の子孫にあたるというコン・ダーシャンは70〜80年代のUFOブームを当事者としては知りようもない90年生まれ。今年はじめての映画、とゆうか半年くらい映画館に足を運んでなかったのですが『宇宙探索編集部 JOURNEY TO THE WEST』を地元ヨコハマのミニシアターで観てきました。
 北京電影学院(大学院)の卒業制作がスマッシュヒット、といっても世界で770億円の興収を記録したという『流転の地球』のグオ・ファン監督などが支援した本格作品。でもタッチは手作り風。どっちだ。むしろ「長篇デビューが人間ドラマに主眼をおいた異色SFの佳作」という意味で、ダンカン・ジョーンズ監督『月に囚われた男』が好きだった人はまた琴線に触れるかも知れません
 『宇宙探索編集部』パンフと、アポロつながりでアポロチョコ。
 とはいえ話のベクトルは正反対。無機質な月面基地が舞台の『囚われ』とは真逆に『編集部』は北京郊外・オンボロ公営住宅の二階から始まる。数十年前のUFOブームで一世を風靡するも今は暖房費も払えない雑誌『宇宙探索』の事務所。各所でフェイク・ドキュメンタリー風と呼ばれているけど、手持ちカメラで細かく細かく切っていくカット割りが異様にテンポいい。「異様にカット割りのテンポがいいインディペント作品の佳作」という意味で『リバー、流れないでよ』が好きだった人の琴線にも触れるかも知れません
 地球外文明との科学的接触を大真面目に夢みつづける編集長=主人公の宝物「本物の宇宙服」をめぐる冒頭5分のエピソードだけで会員デー料金1100円の元が取れるくらい可笑しい。けれどもちろん映画は始まったばかり。三国志でいう蜀のあたり、田舎の村で謎の怪光が目撃され(日本の狛犬さんみたいな)獅子像の口中にあった取り出せないはずの玉が消えた(村人たちは菩薩が現れたと騒いでいる)という情報を追って「宇宙人の仕業に違いない」主人公と編集部員たちは最後の貯えをはたいて西に向かう←あらすじだけ書き出すと「バカなの?」と思われるかも知れませんが、
 不要かも知れませんが今週は画像が少なくて
寂しいので故宮博物院(台湾)の獅子を参考に。口中に玉はないかわり前脚で押さまえてます(写真)。
空飛ぶ円盤や異星人とのコンタクトを信じ続ける主人公が世間的に残念なひとなのは間違いない。「墜落した円盤の乗組員の遺体を冷凍保存してある」と主張するおじさん(かつて中国に実在したらしい。世間を騒がせた罪で5日間拘留)に「見たければ520元(日本円で1万円強)」と言われ、停めようとする編集部員を振り切り520元を払ってしまう主人公、たしかにUFO雑誌の主幹以外に何かを任せてはいけない人な気がする。
 それはSFなのか、と思う人もいるだろう。正直なところ僕じしんSFを期待して観に行ったわけではなかった(こらこら)。だが話が進むにつれ、主人公の残念さ具合(毒キノコに中たったりする)も周囲のてんやわんや(感心するほど絶妙にテントが丸焼けになったりする)つまりコメディとしての可笑しさはキープしたまま、宇宙人だか菩薩だかは分からないけど何かあるらしい(でもうさんくさい)機運は高まっていく。人里を離れた山中に分け入り、監督はこの珍妙な聖杯探究譚にどうオチをつけるのか?
 「なんかしっちゃかめっちゃかな聖杯探究譚にあぜんとするオチがつく」という意味で、『モンティ・パイソンのホーリーグレイル』やアレハンドロ・ホドロフスキー監督『ホーリー・マウンテン』が忘れられない人にも向いてるかも知れません…

      *     *     *
 いろいろ引き合いに出したけど、そしてどれもコジツケな気もしますが(こらこら)「○○に似てる」とか考えなくていい、すぐれてオリジナリティのある好篇でした。少なくとも自分は、冒頭に引いたWE ARE NOT ALONEという言葉を心のなかで何度も反芻せずにはいられなかった。円盤に乗った異星人のことではない。この宇宙のどこかに―ではなく、同じ地球・同じアジアの・ともすれば「習近平の悪の帝国」で済まされがちな隣国にも、こんな残念無念な人(人たち)がいる、それはまあフィクションの主人公なんだけど、いるんだなあ、「私たち」は孤独ではなかったよと、しみじみ嬉しくなってしまったのだ。
 UFOに限ったことではない。今週のまとめ:『宇宙探索編集部』、夢や理想で人生(半生)を棒に振ってしまった(かも)と時に途方に暮れがちな人にオススメかも知れません。
 夢がかなった!だと(自分はそうではないし…)と共感できない、といって夢は夢でした…では単に物悲しい、そういう意味でも「どうオチをつけるのか」本作の落とし加減は絶妙。言い替えれば(たとえば『エブエブ』とかでなく)本作に「招かれた」「この結末に救われた」「この主人公は自分そのものだ」と思えてしまう人は、ちょっと心配な気もしますが…
 
 世の中には、とゆうか時には一人の人間の中にさえ近隣愛と遠心愛があって、家族や身内・仲間を大切にしようと思う気持ちは異物を排除し(もっと悪いことには異物を排除することで身内の結束を高め合う)差別や縁故主義につながる反面、遠い北京の(それも架空のキャラクター!)偏屈おじさんや異星人にまで共感しがちな遠心愛は半径10mの隣人と上手くやっていけないミザントロープと表裏一体だ。しかしそれらは機会を改めて考えることにしましょう。

 物語を牽引する謎の答えに最も肉薄し、いわば皆の一歩先を行く若者(頭に鍋をかぶっているのだが)に主人公が投げかける「もし君が(私より先に)異星人に逢えたなら、訊いてほしい」という問いと、それに応じた鍋少年の答えが忘れたくない好さだった。WE ARE NOT ALONE =WE ARE ALL ALONE。1976年のヒット曲。聴いたことないけど。
 そしてそれまで田舎の木々や牛やロバや畦道ばかり手持ちカメラで捉えていた映画が最後の最後にSFらしい映像を炸裂させる。あーこういうことね(知ってた)かも知れないけれど、何度も繰り返された結末をまた現代にふさわしくリニューアルした、きれいな結末だったと思います。
 ★映画『宇宙探索編集部(ムヴィオラ公式/外部リンクが開きます)

ヒトラーvsシモーヌ・ヴェイユ〜『根をもつこと』(24.02.11)

「イギリスが最も偉大なのは孤独であるときだ。そしてフランスは、自国のために戦うとき、フランスらしさを失う。(中略)人類のために戦うフランスは素晴らしいが、自分たちのために戦うフランスは何の価値もない」
アンドレ・マルロー(ブルース・チャトウィンによるインタビューより。チャトウィン『どうして僕はこんなところに』)

1)ブルース・リーvsシモーヌ・ヴェイユ
 人文系出版10社合同の復刊リクエストが今年も(とっくに)始まっている。
書物復権2024 リクエスト締め切りは2月29日(外部リンクが開きます)
毎年ここで各社の候補から気になるものを選んで、なおかつ「他に復刊してほしい本があれば」でシモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(みすず書房)をリクエストしてるのだけど、今年はどうしようかなあ。ちょっと他の本を選ぶ集中力がない(お疲れ)し、たとえばロシアの若者が軍隊で「演習だよ」と言われて派遣された先がウクライナの戦場だった的な話が伝わってくる現在こそ広く読まれてほしい反戦エッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」(2019年3月の日記参照)コレ自体はちくま学芸文庫か何処かのアンソロジーでも読めた気がする。でも集中力がないので(お疲れ)今パッとネットで探し出せない。やっぱりリクエストしておくべきか。
 書影『根をもつこと』。画像にかかった縞模様はブラインドの影。
シモーヌ・ヴェーユ根をもつこと(山崎庸一郎訳/春秋社/新装版2020/外部リンクが開きます)は冨原眞弓訳・上下巻で岩波文庫からも出ているみたい。ちなみに岩波の表記は「ヴェイユ」。
 「置かれた場所に根をもちなさい」みたいな人生訓かと誤解させる書名や「ぼくらはいま この世界とどうやって繋がればいいのだろうか?過去と未来をつなぐ魂のことば」といった帯の惹句からスピリチュアルな観念論を連想しがちだが、実はヴェイユの著作の中でもかなり政治色や時事性が高い。というのも本書、第二次世界大戦中ドイツの属国となったフランスから逃れたヴェイユがイギリスに置かれた亡命政府の要請に応えて書いた、根こぎにされた祖国をどう取り返すかという具体的なプログラム・提言の書なのだ。

 しかしまずは本書の英訳にあたり添えられたT.S.エリオットの序文を虚心に受け止める必要がある。
「どの程度まで、あるいはいかなる点で彼女に共鳴するか、ないしは意見を異にするかを考えて気を散らしてはいけないのだ。われわれはひたすら、ひとりの天才的な女性、その天才が聖者のそれにも似た一女性の人格におのれをさらさなければいけない」
1952年。英語圏ではまだ知れ渡ってなかったかも知れない、あまりに独自でエキセントリックとさえ思われかねない苛烈な思想家を、初っ端で拒絶されないため必要な予防線でもあったのだろう。けれど同時に、おおよそ書物や思想に、わけてもヴェイユのような存在にふれるとき、折々で思い出すべき心構えでもある。本に自分自身ばかりを読み出そうとしていないか、本の言うことをちゃんと聞いているか。
 としたうえで本文から自分にとっての見どころを抜粋するのは早くもエリオットの助言から逸脱してる気もするのだが、共鳴するか意見を異にするかで気を散らすより前に「おおお」と動揺してしまったのが
「思想の流通がおこなわれる世界、かつ、その思想を広めることをのぞんでいる世界は、週刊、半月刊、月刊の機関誌にのみ権利を有することになる(べきである)人間にものを考えるように求め(←強調は引用者)人間が白痴化することをのぞまないなら、これ以下の間隔はまったく必要とされない」
何を言ってるのか。思想つまりアレは正しいコレは正しくない・何が善で何が悪かといったイシューを人が「考える」には、ひとつのイシューあたり一週間や半月・一ヶ月の時間が必要なんじゃないの、ということではないか。それ以下の間隔で次々イシューを取り扱うとき、吾々は本当に「考えて」いるのか。140字に収まる誰かの意見を、10文字に収まるヘッドラインを鵜呑みにして「感じて」いるだけではないのか。
 『燃えよドラゴン』のブルース・リーDon't think, feel(考えるな、感じろ)」の名言を一撃必殺のパンチのように繰り出したけど
「考えるな、感じろ!(Don't think, feel)」と拳を突き出すブルース・リーの肩を後ろからつかみ「いーや少しは考えさせなさい」と青筋を立てるシモーヌ・ヴェイユの絵(この挿し絵はフィクションであり実在の人物には一切関係ありません)
※似顔絵が下手だと何か怒られたとき「いや別人ですよ?ブルース・リーこんな顔でしたっけ?」と言い訳できるので良い(良くはない)
※そういえば年末年始に千葉の実家に帰省したとき、地元エリア情報など載ってるフリーペーパーで、クロスワードのAからJまでつなげて出来る懸賞応募のキーワードがヒント「今年は辰年。竜にちなんだ映画の名台詞」とあって解いてみたらドントシンクフイールで感心した。さすがエリートを名乗るだけある(外部リンクが開きます)
 逆に吾々は「感じたばかりで済ませるな、考えろ」というメッセージも受け止める時期に来ていないだろうか―そんなことを「感じて」しまったのである。
 終章で蒸し返される「ある瞬間にブラジルの首府がどこかを知らなかったのに、つぎの瞬間にそれを学んだとするなら、彼は一つ余計に知識を得たことになる。だが、なんら以前より真理に近づいたわけではない」という一刺しに始まる、では知識が人を真理に近づける場合と近づけない場合の違いは何だろう?という問題設定も興味深いが、ヴェイユの「回答案」は割愛する。まあ読んだひとは「なるほど賛成するしないじゃなく聖者めいた天才」と慄くことになるでしょう。
 あるいは(現代では小学生でも古代の賢者より物識りだと言われるが)「教室で教えられる太陽は、子供にとって、彼が見る太陽となんらの関係も有しない」(から物識りでも何にもならない)という辛辣なパンチがいいとこに入った日には、(あの向こうに宇宙があるんだな)と少し謙虚な気持ちで朝の青空・日没時の夕焼け・星のない夜空を眺めたり。
 ・ここまで(1)のまとめ:『根をもつこと』―「読む」って何だろう(自分が読みたいことだけじゃなく、ちゃんと著者を受け容れてる?)・「考える」って何だろう(感じてるだけで済ませてないか?)・知識って何だろう、などなど、物を読み考える(そして書く)営みを基本から捉え直す契機が必要だなあと「感じ」させられる読書でした。

2)ヒトラーvsシモーヌ・ヴェイユ
 しかし今回の日記は後半も「考えた」に達しない「感じた」程度の感想に終始します。
 あらためて認識したのは、第二次世界大戦中にフランスで生まれた親独のヴィシー政権が少なくとも知識人(インテリ)層あるいは良心的な人間には耐えがたい恥辱だったことだ。昨年『欲望の現象学』を読み返したときも(昨年11月の日記参照)戦後のルネ・ジラールが、自身の唱えるセルバンテス以来の近代の病の終着点であるかのように苦々しく回顧してるのを見て「占領で作られた傀儡政権だし(国民あげてアメリカニズムに寝返った何処かの国と比べて)そこまで悲観することかな」と思ったりしたのだけど、ましてやヴェイユ、ユダヤ人のヴェイユ、英米軍のノルマンディー上陸(1944年6月)を知らずに亡くなった(1943年8月没)最晩年のヴェイユにとってもまた、母国の屈服とナチズムへの追従はフランス・ヨーロッパ・近代の「間違ってたところ」の帰結・総決算に思われたのかも知れない。
 そこからフランスを、そしておそらくヨーロッパ近代そのものを救う「新生フランス」の青写真については割愛する。T.S.エリオットが「賛否は後にして一旦受け容れて!」と予防線を張らずにおれなかった「聖人のような天才」の所業だとだけ仄めかして先を急ごう。

 なぜフランスは、ヨーロッパはナチスの台頭・ヒトラーの出現を許したのか。
 もっともらしく煽るなら、かつて「労働者階級が政権を奪取し生産工程を掌握しようと、各労働者に割り当てられるのが意義を感じられないほど細分化された流れ作業であるかぎり、疎外はなくならない」という痛烈なストレートでマルクシズム(レーニン)のダウンを奪った(自由と社会的抑圧/岩波文庫)ヴェイユは、ヒトラーをどう攻略するのか。
 キャプション:でも現実の桎梏を射貫く炯眼にたいして理想主義すぎる「その桎梏を除去できれば労働は人生唯一の目的にして喜びとなるはず」という信念とはまだ和解できない…(労働は素晴らしい・労働は真理・労働は神聖・そうでしょ?働け、働けとゾンビのように迫るヴェイユを「いやその労働であなた自身ボロボロになったじゃないですか…」と両手で遮る舞村さん(仮名)のイラスト。舞村さんのトレーナーの背中には「働いたら負け」のロゴ)
 そもそも「天才的なひらめきを見せる直観をのぞいては(中略)知的創意にたいする好みも能力も欠けていた」ヒトラーは、その優生思想・アーリア至上主義じたい、困窮の若い日々に彼が憎しみを刷り込まれた対象=ユダヤ人の選民思想から丸々借用したのだ(ヴェイユはわざわざ言及してないけど「千年王国」という発想もそうかも知れない)というのは最初のジャブに過ぎない。ワンツーパンチ。
 現実の脆弱な肉体としてはスターリニズムにもナチズムにも勝てなかった非運の天才が、思想のリングではまたしても一撃で宿敵を沈める。ナチスの独裁者にたいしてヴェイユが放つ看破の一撃は、ヒトラーをヨーロッパ近代への反逆者・進歩する世界の時代錯誤な敵・非理性の怪物とみなす大方の見方に反し、むしろ彼こそがデカルト以来のヨーロッパ近代の正当な嫡子・科学至上主義の完成者だという裁定だ。
 重力あるいは暴力・権力・そして経済力、エネルギー不変の法則に従うように自在に姿を変えながら、要は「力」のみが宇宙を支配する。それを「真理」として受け容れてしまった時点で、ヨーロッパは早晩ヒトラーを生み出す・ヒトラーに行き着くことも受諾したのだ。他ならぬヒトラー自身の勝利宣言を、ヴェイユは『わが闘争』から引用する。月が惑星のまわりを回るように、力のみが弱きものを従える世界で、人間だけが力の法則の例外者として自然を支配できるなんてありえない、人もまた自然の法則・力の支配に奉仕する運命なのだ…(要約)

      *     *     *
 いつも取り上げるたび前半のイーリアス論ばかり話題にしてしまう『ギリシアの泉』だが、その後半にはプラトンやソクラテス以前の「まだ哲学になっていない」と近代以降はいわれる神秘思想の再評価が示唆されている(本サイト日記「ソクラテスの師匠たち」参照)
 ヴェイユのローマ的なもの・カトリック的なもの・そして近代理性への不信と敵対心、それらによって(時には暴力的に)否定された神秘思想や異端への傾倒は、専門家には常識なのかも知れないけれど、いち素人の自分にとっては、まだ分け入ってない森のような、時間が許せば踏み込みたい分野ではある。個人的な話だけれど、笠井潔《矢吹駆シリーズ》最新作煉獄の時(文藝春秋/2022年/外部)を読んでヴェイユそしてスペインや南仏の異端という視点からシリーズ全体を見直す必要があるのかも、とも思い始めている。それは遅ればせながら・そしてカルトやオカルト・陰謀論に陥らないように気を配りつつ、(その建前が至る所で崩壊しはじめているように思えてならない)資本主義や近代国家主義を問い直すチャレンジにもなるだろう。
 ↑このへんは「あ、舞村さん(仮名)またウワゴト言ってるよ」と軽く読み流してくださいね…と苦笑いする「ひつじちゃん」
 …カルトやオカルトと言えば、冒頭に挙げたチャトウィン『どうして僕はこんなところに』にはドイツの作家ユンガーからの、こんな引用もあった。「ヒトラーの非凡さは、二十世紀がカルトの時代だと気づいたことにある。それゆえ、良識ある知性の持ち主には、ヒトラーを理解することも阻止することもできなかった」
 いっけんヴェイユと真逆のことを言ってるみたいだけれど、実は両者は同じことを言ってるのかも知れない。もしユンガーの言う20世紀の本質(カルトの時代であること)が、近代合理主義からの逸脱でなく、その帰結であったなら。西欧の勝利=技術万能・理性至上主義もまた、一種のカルトだったとしたら。
 (と、ドヤって終わるつもりだったけど余談↓)
 「真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?」という柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』帯文
 真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?という柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(春秋社/2005年/外部)の問い、アウシュヴィッツという極限状況ですら見られたヨーロッパのムスリム差別を告発する同書の問いは、イスラエルが虐殺する側に回り西欧が加担する今、悲惨なほどに重要性を増している。本サイト20年3月の日記で同書を取り上げた時には、話が逸れてしまって(エリオット言うところの「気を散らして」しまったのだ)同書の核心であるイスラモフォビアの問題にキチンと向き合えなかったという反省がある。
 藤原辰史『ナチスのキッチン』(水声社→共和国)については比較的よく書けた・自分にとっての要点を抜き出せた気がしています。21年2月の日記参照。

      *     *     *
『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』品切れなのか…リクエストしようと思ったら「書物復権」春秋社さんは不参加。重い本だけど古書店か図書館でどうぞ!

猫とザッパとアガンベン〜『ZAPPA』『創造とアナーキー』『ボブという名の猫』(24.2.18)

 少しずつ中国語の勉強も再開してるのですが、その「勉強」。日本語では学習を意味する「勉強」という言葉が、元の中国語では「無理する」「仕方なくする」「我慢してする」みたいな意味らしいと知り、それだけなら言葉って面白いねハハハなんだけど
 用例「仰不要勉強自己(Don't force yourself)(無理しなくていいってば)
半世紀くらい前まで商品を「まける」価格を下げて提供するという意味で使われてた(らしい)表現「勉強する」「もう少し勉強してよ」「せいいっぱい勉強してます」ってコレか!と気づき、ガゼン色めき立つ自分。てゆか逆になんで日本では勉強=学習か。意味がネジ曲がったのか、それとも中国でも勉強=学習だった時代があって、言うなれば呉音と漢音みたいに別々の時期に、ふたつの「勉強」が時間差で日本に定着したのか。一を知ると、逆に二も三も分からないことが増える。
 もっともらしく言えば、知るとは、知の可動域が広がることなのだろう。前にも(わりと最近)こんなことを考えた気がする。←後で思い出した。文末参照。

      *     *     *
 先週の日記で引用したシモーヌ・ヴェイユの「たとえば何処かの国の首都を新たに知ったところで真理に近づけはしない(要約)」で思い出した別の言葉がある。
 Information is not knowledge (情報は知識ではない)
アインシュタインの言葉だそうでThe only source of knowledge is experience.(知識の唯一の源泉は経験だ)と続くらしいのだけれど(本当かなあ)、僕が知ってたのは別の、個人的にはアインシュタインのよりずっと好いと思うバージョンだ。できれば憶えて帰ってほしい:
 Well, information is not knowledge.
 Knowledge is not wisdom.
 Wisdom is not truth.
 Truth is not beauty.
 Beauty is not love.
 Love is not music.
 Music is the best.

(あのね、情報は知識じゃないの
 知識は知恵じゃないし
 知恵は真実とは限らない
 真実と美も違うし
 美と愛も別物だけど
 愛だって音楽じゃない
 一番なのは音楽よね)
音楽が禁じられた世界を描いたフランク・ザッパの大作アルバム『ジョーのガレージ』に登場する一節だ。
 映画館の入口で撮った『ZAPPA』のポスター画像。タバコを咥えたザッパ。
 ※今週の日記(週記)は、この後のザッパの話もアガンベンの話もツイッター(現X)で2022年に「つぶやいた」内容のサルベージ+再編集です。

 その名も『ZAPPA』、文字どおりフランク・ザッパ=実験的な音楽や下品な歌詞(ウッカリ食べた黄色い雪は誰かの小便の跡だったとか…ここには書けない差別的な歌詞も少なくない)・過激な言動と超絶ギターで勇名・悪名をとどろかせた鬼才ミュージシャンのドキュメンタリー映画を観たのは22年の6月。どうせまた「よかった」なんでしょとお思いでしょうが、もちろん良かった(と書いてる当時の自分)
 エイドリアン・ブリュー、テリー・ボジオ、数多くの弟子を輩出した中でも、とくに有名だろうギタリストのスティーヴ・ヴァイが長めに話してるのもまた良かった。
参考:スティーヴ・ヴァイ、フランク・ザッパのツアーは過酷なスケジュールだったため、睡眠中にも曲を学ばなければならなかった(amass/23.8.3/外部リンクが開きます)

 奇想と言うのか、とにかく発想の幅が広くて、かつ発想した音楽をイメージどおりに具現化したい人だった。スタジオでも、ステージでも。楽器でも何でも全ての音源をデジタル化し思いどおりに加工できる、今なら当たり前かも知れないけど40年前には一台一億円したという万能サンプリング機(シンクラヴィア)を導入して一人でアルバムを作ったこともあった。ライブ演奏でも(ヴァイなど)豊富な人材を道具のように酷使したりもしたが、音楽を通して(ヴァイなど)人に惜しみなく与えもし、敬愛されつづけるザッパ。しかし享年わずか53歳とは…
 プルースト(1871-1922/享年51)・ザッパ(1940-1993/享年53)いや、ヒゲと早世と子供時代の喘息以外とくに共通点ない二人だけど色々身につまされる…とプルーストを読みながら泣く舞村さん(仮名)。
 理想の音楽の追求は流通面にも関わる。業界でもいち早く独立レーベルを立ち上げ、好きなように作品をリリースできる環境を手に入れた。そして、せっかく自分は自由でレコード会社の顔色を気にしなくてよいのだからと、80年代初頭にプリンスなどが(猥褻な歌詞で)槍玉にあげられ進められた歌詞検閲との闘いを、わざわざ進んで買って出る。日本では冷笑勢が「ビートルズ(ジョン・レノン)の平和主義を揶揄した」と曲解して広めた「俺はデンタル・フロスの歌を作ったが、それで皆の虫歯がなくなったか?」も、本来は検閲に抗するためのレトリックだったはずだ。
 話を横滑りさせると、プリンスは90年代いよいよ所属レーベルとの関係が悪化し、頬に「SLAVE(奴隷)」と直書きし「Prince(1958-1993)」と墓碑銘のようなジャケットのアルバムを最後に「プリンス」という名前の使用すら止めてしまう。当時は奇行と呼ばれ(The Artist Formally Known as Prince - 元プリンスという新名称は当時ミームになったはずだ)ある意味で中年クライシスの典型症状でもあるけど、映画『ZAPPA』を観ると、また印象が変わってくる。なにしろザッパは言うのだ。音楽家を目指すなら不動産鑑定士の資格を取るべきだ、音楽で食べていかなくてもいいようにと。
 丁度この映画を観た頃、もう評価は不動なんじゃないかと僕でも思うような日本の一流ミュージシャンが、近年は音源制作がままならない、自分が信頼できる技倆の演奏者とアルバムを作ることが予算的にむずかしいと吐露していて(たぶんサブスクによる収益配分の変化などもあるのだろう)ショックだったのを憶えている。プリンス、ザッパ、それにまだ存命のブライアン・イーノとリチャード・D・ジェイムズ(エイフェックス・ツイン)…自分が知るかぎり、この四人は未発表の音源を山ほど持っていると言われる天才鬼才だけど、それもまた視点を変えれば、山ほどの楽曲を制作できてもなお、それを作品=商品として流通に乗せられるかは別という話かも知れない。採算とか損益分岐線とか。
 同時期(つまり2022年)に読んだアガンベンの芸術論を思い出し、表現者にとっての幸せって何だろう、と少し考えてしまった(ようだ、当時の自分は)。
 キャプション「個人的にはイーノ先生には「Windows95の起動音」の報酬だけで一生無理せず好きな音楽だけ作っていける収入があってほしい…買い切り・歩合制どっちだったんだろう←下世話」

      *     *     *
 ジョルジョ・アガンベン創造とアナーキー』(岡田温司・中村魁訳/月曜社)は薄くて(アガンベンにしては)とっつきやすげな一冊。冒頭のエッセイは、芸術は「芸術家」と「作品」どちらのものかと考察していて面白い。
 とっつきやす「げ」←とっつきやす「い」とは言ってない…と苦笑する「ひつじちゃん」の挿し絵。
 著者によれば古代ギリシャでは芸術は出来上がった作品に宿るもので、それを作る芸術家自身の身分は低かったという。それが中世ヨーロッパ=トマス・アクィナスの頃になると、世界を創造した神になぞらえ、人間も内なる芸術・自身のうちにある真実や善性を作品としてアウトプット=創造するという考え方に(次第に)移行し、20世紀には芸術は芸術家の行為・パフォーマンスに宿ると認識されるに至る。
 もちろんアガンベンの思索はもっと晦渋なんだけど、芸術の芸術性が作品にあるのだとすれば、芸術家自身は残余に過ぎないから身分が低かったのも分かるし、芸術を遂行する芸術家の行為こそが芸術なのだとしたら、作品こそが抜け殻の残余ということになる(のも理論的には分かる)。まあ無理に二項対立・三項鼎立(古代・中世・現代)にせず都合に応じて使い分ければ良くね?とイイカゲンな自分は思ったりするのだけれど、物語には物語の神様がいる=創作物の価値(芸術性なり何なり)は作家の外にある、という信仰なしに全部「私(たち)」の手柄という姿勢で創作ができるひとたちを僕はちょっとおそろしく思うほうなので、古代の考え方も、あるていど理解できる気もするのだった。
(とはいえ、物語は物語の神様が授けてくれる(アイヌ神謡集で神様が獲物となって人間のもとに来てくれるように)という信仰は、作者の無責任を保証はしなくて、同時に描いたものは自身を通したものであり、描かれたものに作者は全面的に責任を負うとも思っているのだけれど)
 はい、話が逸れました。戻します。

 芸術を作品による独占(古代)から解放し、作者に内から備わっている真実の表出とも考える中世とも訣別し、(ミサがキリストの奇跡の再現ではなく再現前・再演であってそのつど奇跡であるように)芸術もその試み自体が毎回あたらしい芸術なのだとした20世紀的な考えかたは、今度は商業主義と結びついて芸術・芸術家のパフォーマンス・そして商品の三者を同一視するようになった。俗にくだいて言うと「芸術とは芸術家っぽい振る舞いのことで、それはカネになる」。かかる現状をアガンベン先生は嘆いているようだ(たぶん)(晦渋なのよ)。それに対して、じゃあどういうのが望ましい方向なのかを示唆する結語はなかなかに美しい。彼は言う。
「芸術家や詩人というのは「そして実のところあらゆる人間は
「創造する力能ないし能力を所有していて
「あるとき意志の作用によって、あるいは神的な能力を受けて、その能力をはたらかせようと決心する者
「のことではない」

(パラフレーズ:芸術家や詩人だけが創造する力を所有していて、その行使が芸術になるわけではない。創造力は誰でも持ってる)
 芸術家や詩人とは(と言うより、あらゆる人間は)
「むしろ「周囲にある世界を用いると同時に自分の四肢を使用することによってのみ
「自分自身を経験し、みずからを生の形式として構成することができる生きものなのである」

 画家は絵筆を、コントラバス奏者はコントラバスを、そして世界と自分の四肢を用いて、自身の生の形式を表現する。そこで問われているのはキュレーターや、まして販売者にとっての価値ではないだろう。アガンベンは結語する。
「問われているのは「その人物の幸福以外の何ものでもない」
素敵じゃないか。

      *     *     *
 今日の日記(週記)の冒頭に書いた「知るとは、知の可動域が広がること」前にも同じようなことを考えたと思ったら、わりと最近じゃなくて5年くらい前。実話をもとにした『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』という映画だった。薬物依存に苦しむホームレスの青年が猫との出会いで生きる希望を取り戻す話なんだけど、猫がいれば万事快調ではなく、その存在ゆえ窮地に陥ったりもする。ただ、良いことも悪いことも、つまり可能性の幅そのものが広がる。縁とか救いとかって、そういうものかも知れないと感じたのだ。
 ボブが表紙のビッグイシュー日本語版と、せっかくなので最新号の書影。
 オープニング・シーンで最後の状況が提示され「どうしてそうなったか」以下のストーリーで経緯を展開する(多くの)劇映画と同様に、ドキュメンタリー映画『ZAPPA』は彼の晩年・1991年プラハのステージ映像で始まる。「ビロード革命」を成し遂げたチェコの文化特使に任命され、ソ連からの解放を祝うコンサートに招かれたザッパは
参考:フランク・ザッパはチェコの文化特使だった:彼と自由を求めた東欧諸国の深い関係(udiscovermusic.jp/22.4.16/外部リンクが開きます)
ステージで乞われギター演奏を披露する。自分の思い通りに「音楽する」ために流通もバンドメンバーも支配し、時には政府も敵に回したザッパが、そうやって作られた彼の音楽を・あるいは(アガンベン流に言えば)彼の20世紀な芸術家としての振る舞いを支持する人々にほだされ、身上だったコントロールを人生の最後の最後に手放した瞬間だった。僕としては、もう何もつけ加えたいと思わない。少なくとも今は。(しゃべりすぎました…)

      *     *     *
(24.2.20追記)Information is not knowledgeの伝・オリジナル版に(僕が)あんまり感銘を受けないのって「経験のみが知識にうんぬん」が、光の速さの列車やら落下するエレベーターやら実体験ではない思考実験の数々で理論を構築したアインシュタインにそぐわない(いかにもザッパらしい改変版に比べれば尚更)人となりが伝わってこない、せいではないかと思い当たるなど。実際にそう言ったのだとしても「アインシュタインが言った」は、皮肉だけどknowledgeやましてwisdomにならないinformationの模範例に思えてしまうのだけど、どうでしょう?

無法の世界〜ジョルジョ・アガンベン『例外状態』再読(24.2.25)

 アガンベンと彼の「例外状態」については20年7月の日記でサラリと触れているのですが、数年ぶりに再読して改めて思うことがあったので少し整理してみました。と言っても、やっぱりよく分からなかったので分からなさぶりは2)に押しこめて、サンドイッチのパンにあたる1)と1')の現状整理だけ持ち帰ってもらえればなと思います。

1)現状の整頓(パート1)
 法は支配であると同時に庇護でもある。たとえば納税の義務と、社会保障。教育を受けさせる義務と、教育で得られる恩恵。法は罪を罰するが、法で定められた以上の罰が科せられることはない(罪刑法定主義)。
 にも関わらず、法(立法)の庇護が適用されず政府なり行政機関なり(行政)が思うがままに人権を制限する無法地帯=ワイルドゾーンが存在する。ワイルドはワイルドだろう?(旧い)ではなくトランプのワイルドカードと同じ「何でもあり」の意味だ。日本でいえば刑務所の受刑者に対する虐待、そして何より本サイトでしつこく、しつこく、しつこく、しつこく言っている入管の問題・有罪とされた受刑者でさえ「刑期」として確定されている拘留期間が恣意的に延長され「いつ出られるか分からない」入国管理局、その中であらゆる人権侵害がワイルドカードのように許されている入国管理局がまさに、法治国家と呼ばれる社会の中の真空地帯・無法地帯の実在をあきらかにしている。
 2003年に書かれたジョルジョ・アガンベン例外状態(上村忠男・中村勝己訳/未來社2007年/外部リンクが開きます)は2001年9月11日のテロを受けてアメリカが遂行した「テロとの戦い」で露見した捕虜虐待の人道的罪を「法が自らを停止した」制度的・構造的な悪として描出する。少し長めに引用すると
「ブッシュ大統領の「軍事命令」の新しさは、一個人についてのいかなる法的規定をも根こそぎ無効化し(中略)法的に名指すことも分類することも不可能な存在を生み出した点にある。
 ジュネーヴ条約にもとづく「捕虜」(POW)についての規定を享受できないだけではなく、アメリカの法律にもとづいた
(略)被告人でもなく、たんなる拘留者(detainees)であるにすぎない彼らは、純然たる事実的支配の対象であり、法律と裁判による管理からまったく引き剥がされているため、期限の点のみならず、その本性自体に関しても、無限定な拘留の対象なのである。
 これと唯一比較が可能であるのは
(略)市民権とともにあらゆる法的アイデンティティを喪失していた(略)ナチスの強制収容所においてユダヤ人の置かれていた法的状況である」
 もちろん大急ぎで「いやだから本質的には入管も同じだよ」日本だけでなく少なくともイギリスでも状況は似たり寄ったりだよ(23年2月の日記参照)と言わなければいけないけど、言い換えると、米軍がグアンタナモにこじ開けたのと構造的には同じ無法地帯が、各国とりわけ日本の入国管理局に具現化されている、その現実に吾々は少しは動揺すべきではないか、という話を本サイトでは繰り返し繰り返ししてきた。なぜなら、これは国家が「こいつの人権や市民権は制限していい」と判断した者をどう遇するかという、すでに実在する具体例・雛形だからだ。これを第一の問題としよう。

 20年1月の日記などで繰り返し参照したとおり社会学者のテッサ・モーリス=スズキは個人が主権者として国家に支配力を及ぼす場としての「投票所」と、国家が個人を主権(および人権)を剥奪された者として遇する「入管」を二項対立として提示した。(自由を耐え忍ぶ(辛島理人訳/岩波書店2004/外部リンク・17年1月の日記参照)
 図解「個人と国家が接するところ」個人が主権者として国家の政策に関与する投票所・対・国家が主権を有さない者として個人を遇する入国管理局
 けれど現代の吾々は、主権者として投票で制御しているはずの国家が、法も国民の意思もないかの如く恣意的に振る舞う別種の無法地帯も目の当たりにしている。これが第二の問題だ。
 上記の二項対立を「料理の三角形」的な三項対立の図に描きあらためると、こんな感じだろうか:
 A・国民主権(投票所)では「制御不能」なB・法律を無視する国家(上の無法状態=例外状態・国会停止・クレプトクラシー)がC・人権を剥奪された人々から「剥奪」する(下の無法地帯=入管・グアンタナモ)。またAの主権者はCの被剥奪者に「転落の可能性」をもつ。「こんな感じ?」と言う「ひつじちゃん」のワンポイント挿し絵つき。
米国による捕虜虐待=国家によって法の庇護が剥奪される「下の無法地帯」を序論の「まくら」にしているとは言え、アガンベンが『例外状態』で着目しているのは「上の無法状態」だ。それは上記20年7月の日記でふれたとおりアガンベン自身が体験した自国イタリアの80年代以降の腐敗であったし、それに先立つファシズムやナチズムの姿であったし、何より政府与党が繰り返し(行政が法を停止できる)緊急事態条項の成立を目指し、国会の開催を義務づける法の規定を無視して「閣議決定」の効力を異様に伸長させ、また周知のとおり与党議員の脱税や政治資金の流用が「お咎めなし」としてまかり通る現在の日本の姿でもある。
 「政府の独断が過ぎる」「これでは法治ではなく人治だ」あるいは「入管の人権侵害はおかしい」という声は多く上がっている。けれど多くのinformationを「ワイルドゾーン」「例外状態」と名指し、両者を有機的に関連づける・社会の中に位置づける・歴史として物語化する、まとまった言説や書物にたどりつくのは現状まだまだ難しい。コンパクトだが多層的で晦渋な、アガンベンの著作を読み解くことが(少なくとも自分には)求められる所以だ。

2)本の読みかた
 ここまでのまとめ
入管問題から議員の脱税まで個々に「ひどい」「許せない」でなく法の停止(ワイルドゾーン・例外状態)という一つの現象として把握できる
・例外状態についてはアガンベンが踏み込んだ検証をしている

 これで『例外状態』の概要を手短かに要約できればめでたし、めでたし。だがそうはいかない。邦訳で200ページ足らずの本が、なんともいえず難しいのだ。
 もとよりアガンベン、叩かれることも多い人だ。佐々木中に叩かれ(今年1月の日記参照)ジュディス・バトラーに叩かれ(昨年11月の日記参照)柿本昭之に叩かれ(20年3月の日記参照)、デヴィッド・グレーバーが「デリダやフーコーなどフランス勢が枯渇したので"流行を追う大学人""魅惑のメタ理論を求めてイタリアやスロヴェニア"に飛びついてる」と揶揄してるのもアガンベンのことっぽい(民主主義の非西洋起源について以文社。ちなみにスロヴェニアはジジェクでしょうね…)。格好の叩き台でもあるのだろう。重要な視座を提供するがゆえに「そこまで言えるんだったら」と不徹底を叩かれる。または逆に不用意さを責められる。
 個人的に困惑させられるのは、やたら話を掘り下げるところだ。本来それは良いことのはずなのだけど、たとえばフーコーなどが近代の病弊として指摘した問題を、引き継いで掘り下げるのは良いけれど「それは古代ローマまで起源が遡れる」みたいに広げてしまう。すると近代になって生じた=解毒・克服もできそうな問題が、普遍で不変=人類の努力では改変できないことに思えてしまったりするのだ。「たかだか近代に始まったことじゃないか」と言えなくなってしまう。構造主義に歴史が否定された時の苦痛も、こんなだったのかも知れない。
 『例外状態』もまた、今の入管やグアンタナモ・緊急事態条項などのヒントを求めて飛びつくと、古代ローマの護民官制度や初代皇帝アウグストゥスの時代まで遡る議論に「取りつく島もない」と翻弄される。T.S.エリオットが言ったのと同じ、まず受け容れる忍耐が必要な本だ―というのは再読して気づいたことだ。
 そうして(自分が求める答えでなく)書いてることに虚心に耳を傾けた今回の再読で得ることは多かった気がしますが、目が醒めて時間が経つにつれ夢の内容をボロボロ忘れていくように、読んでる最中は「ふむふむ成程」と思ったことが、今となっては面白いくらい再構成できない(ダメダメじゃん!)
 「さわり」だけ紹介するならば
・例外状態は単なる逸脱ではなく、とくにフランス革命以降の近代法体制において「法自体の名のもとに法の効力を停止する」組み込み式の機構であること
・奴隷解放のリンカーンや国際連盟提唱のウィルソンなど、メジャーな歴史では民主主義の擁護者と捉えられがちな大統領が、むしろ例外状態の導入を推し進めたこと
・単に法の停止でなく「法は撤廃されないまま、ただ無効化され」「法として制定されていないことが事実として効力を発揮する」事態であること
・ローマの皇帝は法的には法で定められ権力(権限)の行使を委任された者という扱いだけれど、実際には当人の属人的な権威が支配を正当化していた
など吟味すべき命題が多く提示されている。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは支配の三類型として伝統的支配・合法的支配・カリスマ的支配を挙げたが、カリスマ的支配がカール・シュミットなどによってヒトラー登極の理論的根拠とされたとき、その正統性の根拠が指導者と追随者とのあいだの血筋(出自)の同一性だったことは、現代的な政府の専横と民族主義・レイシズムの親和性の高さを考えるうえで参考になる問題だと思う。
 そして例外状態が近代法の逸脱でなく、根源に仕掛けられた自爆装置である以上、統治が暴走し「死を招く機械」となることは不可避で「例外状態から法治国家に回帰することは不可能である」(魔法から解放されても魔法にかかる以前の状態には戻れない)というアガンベンの結論は、また憤激と議論を呼ぶものだろう。ナチの支配を理論的に準備したとされるシュミットと、ナチのユダヤ人迫害に追われ命を落としたヴァルター・ベンヤミンは、しかし学問的には関心領域が重なる同士で、いわば同じ玉を取り合いながらシュミットは国家の至上性に、ベンヤミンは国家や社会を解体する革命に賭けたのだとアガンベンは言う、例外状態を、近代の法も制度も解体することでしか解除できない呪いとすることで、アガンベンはベンヤミンに見出したアナーキーな夢を見ようとしているのかも知れない。「対処療法ではだめだ、すべて御破算にしろ」と―この点にはまだ検証と吟味・考えることが必要だけど。

1')現状の整頓(パート2)
 「法技術的な意味で言えば、イタリア共和国はもはや議会制国家ではなく、政府主導の国家なのである。
 しかも、注目すべきことにも、程度の違いはあれすべての西欧民主主義国において今日進行中のこれと同様の憲法制度の変質は、法学者や政治家たちには完全に自覚されているとしても、市民たちにはまったく気づかれないでいる」

 単行本『例外状態』と、いわばワイルドゾーンに囚われた香港のパキスタン難民を描いた映画『白日青春 -生きてこそ-』のチラシ。
 法治がなければ法治の停止(例外状態)もないわけで、近代的な例外状態は革命後のフランスで祖国防衛のため軍隊が一時的に地方(や場合によっては国全体)を掌握する「戒厳」に始まる。緊急事態下での退避措置だった戒厳のエッセンスが、間を置かず文民政府にも採用される。その極点にある「われわれの民主主義を守るためなら、いかなる犠牲を払っても大きすぎるということはない。まして民主主義それ自体の一時的な犠牲などものの数ではない」(ロシター、1948年)という見解を「グロテスク」と断じるアガンベンが、新型コロナ初期・ロックダウンに従順な人々を見て嘆いたのは(賛同するかは兎も角)筋が通っている…という横道はさておき。
 ・農家に増産指示、罰金も 食料危機時の対策法案、概要判明(24.2.8/共同通信/外部リンクが開きます)
という記事、政府が供給目標を設定。農家に増産計画の届け出を指示できるとし、従わない場合は20万円以下の罰金を科すにポイント・オブ・ノーリターン的なヤバみを感じてしまう。
0)そもそも意図的にせよ結果的にせよ政策で食糧自給率を下げてきた張本人である政府が「いざとなったら政府の計画で農家に言うこと聞かせるぞ、えへん」と宣う(のたまう)のがちゃんちゃらおかしい(その供給計画とやらも原発や万博や辺野古基地やマイナンバーカードみたいに自滅的な内容にならないと?)…というのはむしろ末節で
1)政府が繰り返し導入をはかっている緊急事態条項の、いわば裏口からの持ち込みであること
2)しかも(0で述べたように基本無能な政府が)「目標は政府サマが決めるから、実現のための計画はお前らが策定しろ」というの、本来は政府がやるべき公助を子ども食堂に丸投げしたのと通じる+新たに「拒否したら罰金な」が加わってるのが家族を養おうとしないのに所有権だけは主張するDVみたいで本当にトキシック
3)そんなこと言ったって、もし食料がなくなったら困るのは私や(こうして異を唱えてる)お前自身じゃないかと反論して政府を擁護する(政府サマにたてつくな)向きもあるかも知れないけど、個の生存・個の自由の確保が→なぜか国家による直接の命令・統制・罰則に直結するの「おかしくね?」と一度、立ち止まって考えるべきでは
4)しかもそれが「みんなのため」「国のため」「絆」みたいな美名を帯びながら実際には「私たちみんな(=国家)のために一部の国民は罰則つきの決定権に服従しろ」と=「みんな」とは正反対の「分断」を推進しているのも異様だ。
 外国人など異分子の排除(排除しながらの包摂)が良いと言ってるのでは勿論ない。ただ今まで「異分子を差別してるつもりでも、いずれその矛先は自分たち自身に向くぞ」と言ってきた、その狼が「万一の時には」と留保つきとはいえ現実に来てしまった(かも知れない)ことに一人おののいている。
 入管について等(本日渋谷で予定されていたデモは雨天延期だそうです)もっと現状でワイルドゾーン・例外状態が関わることに言及できたらと思っていたけれど、この一件で疲れてしまった。来週は休ませてください(月末の小ネタ拾遺はします)


d例外状態の恒常化についてアガンベンは「市民たちはまったく気づいていない」と嘆いてるけど、僕はむしろ「みんな気づいてるけど、そういうもので仕方ない(またはもっと積極的に「それで何がいけないの?」)と受け容れてる」ほうが怖い。
 マイナカードを強制はしないけど紙の保険証廃止とか、まさにアガンベンが言う「法はあるが有効でなく、法にないことが効力をもつ」例外状態だと思うのだけど。

小ネタ拾遺〜24年2月(24.3.3)

(24.1.31)実は20分ほどかけて半分ほど和訳したんだけど日本語ページがあった(ははは)。とくに最後の一行「私たちはまた…」で「本当ロクでもないな行政」と思った人は前のめりに検討を。ドイツ・ボン大学のラインハルト・ツェルナー教授が発起人だそうです。
「群馬の森」朝鮮人労働者追悼碑の撤去停止を求める(Change.org/和文24.1.31/外部リンクが開きます)
→遅かった。なんてことだ。朝鮮人追悼碑、群馬県が撤去し更地に がれきの山も、本社ヘリ確認(朝日新聞デジタル/24.1.31/外部リンク)月初にああは書いたけど、かく言う自分の正気が枯渇寸前ですよ…

(24.2.1)「本書は数式を多用する。でも大丈夫、飛ばしていい。いや違う、分かった顔でどんどん先に進め。分かった顔が大事(要約)」という巻頭言に励まされ読みはじめたロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』予想してたけど数式に入るずっと前からサッパリ分からない。でも不思議と面白い。AIに意識は宿るのか?という難題を、そもそもヒトの意識は量子論なしで語れるのか(いや語れない)という更なる難題で対消滅させる本らしいです???
 邦題が好すぎるロジャー・ペンローズ/林一訳『皇帝の新しい心』書影。
詳細は読了して書けることがあったら。濁りきった金魚鉢みたいな社会で、世界や宇宙の広さ深さは救い。
(24.2.7)いちおう読了。自分には難物だったぶん感じる処も沢山あるけど(後日まとまるかは不明)まだAIが理論的可能性でしかなかった1989年に
「アルゴリズムはそれ自体では、真理を決して確証しない。真理を生み出すのと同じくらいに、虚偽だけを生み出すアルゴリズムを作るのはやさしい。アルゴリズムが正しいこと、あるいはそうでないことを決定するには、外部からの洞察が必要である」と、まるで30年後=現在の「平気でデタラメを言うAI」の猖獗を看破していたようで興味深い。難しいなりに楽しい読書でした。
書影『地中海II』(ブローデル)表題部分のアップ。
(同日追記)続けてブローデル『地中海』のIIを読み始める。読み始めて早々
「シチリア島の島民は橋の建設のために税金を払うが、政府は他の目的のために金を使う。したがってシチリアの内陸には十八世紀以前にはきちんと整備された道路がない」
の一節にダメだ…人類、昔からこうだ…と心が折れそうになりつつ、豊富な知見と四方山をフェデリーチェなど(昨年10月の日記参照)オルタナティブな史観とどう摺り合わせていくかは個人的な(余生の)課題。

(24.2.3)「選挙は理想の候補者がいないから棄権するものではなく一番マシを苦々しく選ぶ・一番当選させたくない奴を落とすものだ(だから投票に行きましょう)」という文言に偽りは100%ないけれど、実際そうしてマシを選んで「なんでこんなの選んだの」と嘲られる悲哀もヨコハマ市民は知ってますよ…
米軍、イラク・シリアの親イラン組織を報復攻撃 戦略爆撃機B1を投入(毎日新聞/24.2.3/外部リンク)
それでも横浜はカジノは回避したうえ結果的に菅義偉政権に引導を渡したし(それで出てきたのが岸田というのは措く)アメリカのトランプ再臨だけは勘弁してほしいし、京都はマトモでしかも勝ち目のある市長候補がいるのだから本気でどうにかしてほしい。
(同日追記:「京都市長選のマトモでしかも勝ち目のある候補者」って考えてみたら具体的に誰のことか名指ししてるも同然なので、公職選挙法に抵触しないよう、日付が変わって投票日当日になったら消しますね。ははは)
(追記→負けちゃった…これが「民意」かと思うと本当にガッカリ…)

(24.2.4/すぐ消す)放映も残り3回くらいということで、間欠泉のように時どき噴いて出た王様戦隊キングオージャー(公式/外部リンクが開きます)語りもそろそろ終了ですが、生まれた時から2000年来の宿敵を倒すのに避けられない手続きという大義名分こそあれ、不老不死のチカラを手放すのに「キングオージャーの他の王様たちと一緒に歳を取りたくなった」と言うジェラミー、本当にギラたちのこと大好きになっちゃったんだな…(昨年9月あたりも業が深かった)本物ヒメノが婿取り決定戦する時は、セバスチャンと本気で争う姿を見せてくれてもいいぞ…(いや想像でしか観られないのだが)

(24.2.4)・署名:UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への資金拠出を見合わせた日本政府【ならびに各国政府】に撤回を求めます(change.org/24.1.28〜/外部リンクが開きます)に賛同しました。2/3のサイト日記で近隣愛と遠心愛って話をちょっとしたけど(まあ皆様お察しのとおり)わりかし後者ベースらしい自分は、かなり怒ってます。・UNRWAのパレスチナ支援・日本参加70周年特設サイト(外部)も一応。経済状況が許せば支援も(←これは自分宛)

(24.2.5)最近こんな感じのスマホゲームの広告を頻繁に見るよね…なキビシめの降雪がヨコハマにも。足元が厚みのあるミゾレ化して(底は氷水)逆にヤバい。(1)とりあえず店の前をキレイに除雪してるコンビニ店員さんに待遇面の報いがない世の中 is SHIT
 あまり切迫感ないけど雪の夜道。目の前を知らない人が二人、行き越していったところ。
そしてどうにか帰宅してから(2)こんな感じの時に地震が起きたら、どんだけ絶望的だろうと考えてしまった。オチとかはない。首都圏の皆様どうぞ御安全に。もっと大雪に見舞われてる地域の方々は尚更。

(24.2.6)こんな夜は早々に布団かぶって寝るに限ると21時に床入り→午前2時に目が醒めてしまい寒くて眠れない負けパターン。ありものの野菜に刻み生姜たっぷりのスープで内側から暖めて、眠気が戻ってきたので再び寝ます。
 味噌汁碗(小)に注いだ生姜野菜スープ画像。
玉ねぎ・ほうれんそう・刻み生姜・大さじ半分くらい残ってたオートミール。だしは顆粒の昆布だし+ヴィーガン味覇+隠し味に酒粕。胡椒とクミン・カレー粉でスパイシーに。

(24.2.10)そういえば今の職場で「花粉が来た今年はものすごく酷い頭が重くて何も考えられない」と午後じゅうグッタリしていた同僚が花粉ではなく新型コロナだったので…とくにノーマスクでもう大丈夫と思ってるひと、まだまだですので…

(24.2.10/未使用だったけどサルベージ)SNS経由で知った記事。It’s time to admit that genes are not the blueprint for life「遺伝子が生命の青写真、ではないと認める時だ」(ネイチャー/24.02.05/外部リンクが開きます)は、科学者が一般向けに「細胞はマシーンで、DNAがそのプログラム」という比喩を濫用するのは怠惰で時代遅れ、生命現象にはもっと複雑な要因が絡んでいる、という主旨らしい。とはいえScientists must take care not to substitute an old set of dogmas with a new one. (科学者は旧いドグマを新しいので直ぐに置き替えようとすべきではない)It’s time to stop pretending that(中略)we know how life works. (生命のことなら分かってますというポーズをやめて)発見と新しい理論の構築をこれから始める十年にすべき、という結論。

(24.2.11)ミニトマト、とゆうかトマト全般お安めな昨今なので「怒りに我を忘れた王蟲」風カレー。
 楕円形の白いカレー皿に盛りつけたカレーライス。一緒に火を通したプチトマト7つを片側に寄せて王蟲の攻撃色を、キャベツのコールスローでわしゃわしゃした前脚を表現。おまけ画像として、食べ終えた皿に追加したコロッケ。
おまけ:その芋、金色の衣をまといて…(皿に残ったカレーを拭い取るべし)

(24.2.12)あ、いや、こうすれば(似てないのを)かなり誤魔化せるて分かってたんですけど
 先だっての似てないブルース・リーの絵、服を黒い縞の入った黄色いトラックスーツにして、手にヌンチャクを持たせたの図
これは別の映画で、(Don't think,feelの台詞があった)『燃えよドラゴン』じゃないから若干誠意を欠くかも、と「考えて」しまったのよ…

(24.2.14)本描きで絵を整えすぎ、ネーム時のラフな走り描きにはあった「味」が消えてしまうこともある。そう思って敢えて間抜けめに「崩した」ほうが奏功することも。まんがは楽しいぞ。
 「はぁ?」と呆れ返るアスミ(主人公)。TAKE1では口を大きく開け「整った」あきれ顔をTAKE2では鼻の下をコミカルに長くラフ時の間抜け感を再現。こちらを採用。

(24.2.18)体調が許してくれたので、一時間ほど?スタンディングに参加してきました。HANDS OFF RAFAH ラファに手を出すな 全国連帯デモ(新宿/2.18.17:00〜19:00)(Instagram/外部リンクが開きます)暖かくなってきたら、また頑張れるかな。

(24.2.20)ラピュタがまだ牧歌的なのは国が滅びて残ったのが園丁のロボットなところで、日本だったら廃虚を最後まで這い回るのは国税取り立てマシーンだろう。

(24.2.22)久しぶりにマフラーを巻く。寒の戻りだ。違うか。

(24.2.23)現時点で最新号のビッグイシュー日本語版2/15号(公式/外部リンクが開きます)で表紙と巻頭インタビューを飾っているボーイジーニアス「女性やLGBTQ+の権利侵害にも声を上げてきた、彼女たち」とあるけれど、パレスチナについてはどうなの?と記事に共感・共鳴すること、あるいは街頭でビッグイシューを手にすること自体ためらった人がいたら、その留保は解除してよさそう。
ボーイジーニアス、2024年グラミー賞のレッドカーペットで「停戦を求めるアーティスト」のピンを着用(Teen Vogue/2024.2.4/英文/外部リンク/グラミー賞7部門ノミネートですってよ)
同記事からリンクが張られている、バイデン大統領に向けた・停戦を求めるアーティストの署名(外部リンクが開きます)にはAから読んだだけでもアダム・ランバート(紅白観ました?)、アラン・カミング、アルフォンソ・キュアロン、アリッサ・ミラノ、アンドリュー・ガーフィールド、アニー・レノックス…場合によっては「良かった、このひとをまだ心置きなく好きでいられる」と安堵する名前がちらほら。場合によっては【あなたの「推し」はパレスチナについて何か表明していますか?】と問うのは残酷なことかも知れないけれど。そもそも【あなたは何か表明していますか?】と問うことも。
とくにこの国において【何が私たちを黙らせているか】というのは個々人の意気地とかよりネットを含む社会構造の問題な気がしてるので、この話題は「考え」育てて改めて形にしようかとも思っています。

(24.2.24)香港映画(および香港社会)で見過ごされがちだったフィリピンからの出稼ぎ労働者をフィーチャーした『淪落の人』(20年5月の日記参照…って、もうそんな昔か)に続いて、パキスタンからの非正規滞在者を可視化したアンソニー・ウォン主演の新作映画『白日青春 生きてこそ』を観てきました。
参考記事:香港デモ支持した俳優アンソニー・ウォンさん 新作から語る今の社会(朝日新聞デジタル/24.2.9/前半無料/外部リンクが開きます)
難民認定の門の狭さや就労禁止・強制送還など日本とも通じるところがありつつ、最初は差別感情むき出しの主人公も出世街道を目指すその息子も別々に大陸から来た移住者で、吾々香港人は誰も彼も多かれ少なかれ流れ来て流れゆく存在・同じ枝に羽を休める渡り鳥じゃないかという問いかけの形は、単一民族だの2600年の歴史だのを過度に神話化した日本社会で提示するには神話破壊から始めなきゃいけないんだなとか考えたり。
 映画『白日青春』パンフと、ジョルジョ・アガンベン『例外状態』

(24.2.17)北陸の震災を受けて、三条周辺が舞台だった22年のアニメDo It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-が3/1まで全12話チャリティー配信。ふわふわしてるのにネジがきっちり締まってるとでも言いますか、個人的には、前から気になってた店+1回分だけの18きっぷを使う口実とはいえ、本作で主人公たちも食べてたのがダメ押しで三条までカレー食べに行った程度には高評価な作品(ベタ惚れやん…)
 いつぞやの拍手お礼のリサイクル。三条スパイス研究所のビリヤニセット。ビリヤニといってもあっさりめで付属のカレーや漬物と合わせると丁度いい塩梅になるスタイル。好かったです。
視聴自体は無料で、間に入る広告収入全額が新潟への寄付になる由。ひたすら観てて心地よい良作なので、支援も兼ねて是非。

(24.2.28)【昆虫モチーフの作風→ラクレスは世界最大のカブトムシ「ヘラクレス」由来かぁと気づくのに10ヶ月くらいかかった】先週つつがなく大団円を迎えた『王様戦隊キングオージャー』。主人公に立ちふさがる梟雄ラクレスがシリーズ後半、髪をオールバックにして再登場したとき「完全に隙のないオールバックじゃなくて少しハラリと前に垂れてるほうがいい」と演者みずから提案したと知り(公式参照外部リンクが開きます)「さすが邪知暴虐の王、髪フェチの弱点を熟知している」と畏怖した舞村さん(仮名)は
 「民は道具、私が国だ!」と凄むラクレス(ハラリと落ちた前髪に矢印)と「ひまわりの布教部員」たくみん(三つ編みの後れ毛に矢印)。あまりないツーショット
アニメ『Do It Yourself!!』のメガネ乙女たくみんの三つ編みの、ほつれというか後れ毛にも「さすが髪フェチの(以下同文)…新潟の被災地支援チャリティ配信、金曜日まで。(終了しました)
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2403  2401→  記事一覧  ホーム